みずたまりの歩き方


ほんの十五分ほど前、美澄は駅に向かう小さな背中を見つけた。
しょんぼりと肩を落とした少年に小走りで追いついて、お疲れさま、と声をかけた。
しかし、彼は目の端で美澄を捉え、小さくこくんと頭を下げただけだった。

「今日はお迎えじゃないんだね」

圭吾は土日ごとに、隣の市からひとりで電車に乗って倶楽部に通っている。
帰りは母親が車で迎えに来ることも多いが、今日は仕事だという。

あの日壊れていた傘は買い換えられ、きれいに畳まれてその手にある。
しかし、弱々しい足取りゆえに傘先がときどきアスファルトを擦っていた。

「電車の時間、大丈夫?」

圭吾は黙ったまま、またこくんとうなずいた。
明らかに気落ちした様子に、美澄は可能な限りやさしく問いかけた。

「何言われたの?」

圭吾は土曜日の午前中に開かれている子ども教室だけでなく、午後の指導対局も受けている。
今日はそこで久賀に何か言われたらしかった。
本当なら毎日でも来たい、と笑顔を見せ、いつも電車の時間ギリギリまで倶楽部で過ごす少年が、今日は足早に出ていった。

「おれ、奨励会は無理だって」

圭吾の気持ちを表したような曇天を美澄は仰いだ。
アノヤロー、と口の中だけでつぶやく。

奨励会とは正式名称を「新進棋士奨励会」といい、プロ棋士を養成する機関である。

二十六歳までにプロである四段にならなければ強制的に退会となるため、多くは小学校高学年から中学生のときに入会する。
四段と言っても、アマチュアの段位とはまるで違い、アマチュア五~四段で初めて奨励会の6級(最下級)に合格できるかどうか、という高いレベルだ。
アマチュア2級の圭吾では合格が厳しいことは美澄にもわかる。

「でもそれは、『今はまだ無理』ってことでしょ? これからもっと頑張ったらいいじゃない」

圭吾は強く首を振って、青に変わった信号を渡る。

「久賀先生は『多分無理』って。このままだと年齢制限に間に合うかどうかわからないって」

将棋を愛する圭吾の気持ちを踏みにじる発言だと思えた。
芽生えた怒りは一気に頭の先まで抜ける。

「そんなのまだまだ全っっ然わかんないじゃないのよ!」

美澄の声はよく響き、ターミナルでバスを待つ人たちが幾人もふり返った。

「気にしない、気にしない! 私なんか二十一にもなって、女流棋士目指し始めたんだから!」

「そうなの?」

圭吾のまるい目が見開かれた。
つやりときれいな瞳が、かすかな陽光を反射する。

「そうだよ。お互い頑張ろう! 先生の言うことなんて適当に聞き流そう!」

「先生の言うことはちゃんと聞いた方がいいと思う」

そこはきっぱりと言い切って、圭吾は駅の時計を見た。

「もう行かなきゃ」

「気をつけてね」

「うん。また明日! バイバイ!」

走り去る青いリュックの上で左馬のストラップが跳ねたのを見たら、胃の奥から怒りが吹き出してきた。
そうして美澄は倶楽部まで引き返してきたのだった。

< 8 / 144 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop