鬼麟
 浅ましく、愚かな私を見ないで。
 願いを、訴えを聞き届ける者は既に亡い。
 固まる私に、それは静かに忍び寄る。伸ばされた手は、驚くほど生白く、死者よりも死者らしい。
 右手首からとめどなく溢れ出る赤に触れ、緩やかな弧を描きながら振るわれる。その手は音もなく、感触もなく、温度もなく頬に添えられ、三日月が赤く染まった。

「お前のせいだ」

 耳元で囁かれるのは、憎いモノの声。
 視界が紅に塗り潰されたのを機に、肉塊も、その憎いモノも、私も、笑っていた。
 小さな声がした。無我夢中で底なし沼を掻き分けるような心地から一気に浮上し、気付いた時にはその声をかけてきた人に馬乗りになっていた。
 胸倉を既に掴んでいて、遠くで自身の荒い呼吸を聞きながら、一切の初動なしで振り落とす拳。
 瞬き一つすることなく、見極める赤い瞳。鼻先を掠めるように止まった拳に、彼は僅かに睫毛を震わせただけだ。

「なんでっ、……なんで止めないのっ」

 私の荒れた呼吸と反対に、ひどく冷静に見上げられる。抜け出せるくせに、どうして甘んじて受け入れているのか。
 焦る気持ちの捌けどころを探せど、見つかりそうもない。
 ふと差し出された手に、てっきり殴られるかと思い、反射的に目を瞑ってしまう。しかし、待てども痛みは一向に来る気配はなく、代わりに頬に添えられた熱がいやに温かい。

「私は、殴ろうとしたんだよ。それなのに、なんで平然としてるの」

 私から手を出したのに、なんて理不尽な問いかけなのだろうか。避けることもせずに、されるがままな彼に漏らすのは、不満という名の八つ当たりだ。
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