迷いの森の仮面夫婦

「あ、おはようございます。」

自分以外の思わぬ先人に彼が一瞬動揺したのが分かった。

彼は既にスクラブに着替えていたが、私はその日まだ私服のままだった。 いつものように髪も一つにくくっていない。

それでも彼はこちらを少しだけ一瞥した後、「ああ、成瀬さんだったのか。俺より早く人が居たからびっくりした」

驚く事に、彼は私を成瀬 雪穂だとは認識していたらしい。 それさえも知らないと思っていた。
いつもスクラブの色と首からぶら下っている名札で私の存在を認識しているとばかり思っていた。

「髪型が変わると誰か分からないものだね。 ふぅ、それにしても外は暑い。毎日こんな気温じゃあ熱中症の患者さんも増えそうだね。」

私の横を通り過ぎる彼に挨拶もせずに無言のまま、パソコンの電源をつける海鳳の横顔を見つめていた。

「―――せんか?」

「え?」

パソコン画面からこちらへと視線を移した海鳳がまじまじと私の顔を見る。
そして何かに気が付いたようにハッと瞬きを数回した。

「もしかして、君は」

「早乙女先生、私と結婚しませんか?」
まるでお茶でも飲みに行きませんか?といった軽いニュアンスで、結婚しませんか?と言い切った。

彼の目をしっかりと見据えてつとめて冷静に振舞っていたけれど、自分の指先が僅かに震えているのが分かった。

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