逆プロポーズした恋の顛末


静かではあるが無音ではなく、微かな話し声や音楽が漏れ聞こえ、ほどよい雑音となって耳に響く。

壁に絵が架けられていたり、押し花が飾られていたり、と病院よりもやわらかな雰囲気が漂っている。

人の気配は感じられるが、廊下を行き交う人の姿はなく、誰ともすれ違うことのないまま、わたしたちは二階の一番奥までやって来た。


「左奥が、夕雨子さんの部屋です」

「ゆ……」


ゆーこちゃん、と叫ぼうとした幸生の口を尽がとっさに手で塞ぎ、引き寄せた。


「律」


目配せを受け、手にしていたブーケを立ち尽くす所長にそっと手渡した。


「夕雨子さんに」

「え……?」


戸惑う所長に答えはNOだろうと思いながら、訊ねる。


「所長、夕雨子さんにプロポーズしたことあります?」


案の定、首を横に振る所長を見て、尽はスラックスのポケットから取り出した小さな箱を所長の目の前で開いてみせた。

中に収められているのは、ダイヤモンドの指輪。
夕雨子さんがあの家に置いていった、『宝物』の一つだ。


「一生に一度くらい、プロポーズしてみたらどうだ?」

「……プロポーズ?」

「万が一、フラれたら慰めてやるよ」

「…………」


尽は、所長のスラックスのズボンに小箱を押し込み、すっかり小さくなってしまった背中を優しく押した。

よろめきながら部屋の前まで進んだ所長は、しかし、扉の前で立ち止まったまま手を伸ばそうとしない。

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