逆プロポーズした恋の顛末

所長がもう一度「apple」と繰り返すと、幸生はこくりと頷き、「apple」と正確に真似してみせた。

所長が「上手だなぁ」と褒めると、調子に乗って次々アルファベットを読み上げる。

それに対して、所長が単語を答えるという一種の読み聞かせが始まってしまったが、歩くと十五分はかかる距離も車だとあっという間だ。

AからZまで、一巡しないうちに我が家――平屋建てのアパートに到着した。

玄関こそ狭いが、中は1LDK。バス・トイレは別、キッチンスペースがあり、十畳ほどのリビング、寝室にしているのは八畳の部屋。

都会でワンルームを借りるよりも安い家賃で、この広さは驚きだ。


「ただいまー!」

「幸生! まずは手を洗う!」


靴を脱いで部屋に飛び込むなり、絵本を広げようとする幸生を捕まえる。


「えー」

「手洗いは病気を予防するのに、とっても大事だぞ。また風邪を引きたくないだろう? 一緒に洗って来よう」

「はぁい」


抵抗しかけた幸生も、所長のひと言で大人しく洗面所へ向かう。

手洗いのうたを歌う二人の声を聴きながら、自分もキッチンで手を洗い、さっそく冷蔵庫から材料を取り出し、料理に取りかかる。

その間に、所長はリビングで幸生を診察しながら、保育園での出来事を聞いてやってくれていた。
おかげで料理に集中でき、いつもよりだいぶ早く夕食が完成。

ごま入りのハンバーグは和風の味付けにし、クレソンとブロッコリーのサラダ、星の形にくりぬいたにんじんのグラッセを添えた。
お味噌汁は、患者さんの「おすそわけ」でもらったサヤエンドウと油揚げだ。


「いただきまーす!」


量は少なめとはいえ、けっこうな勢いで食べる幸生に、所長は目を細める。


「おいしいか?」

「ママのハンバーグ、すっごくおいしい!」

「うん、うん。よく食べて、よく遊んで、よく眠るのが子どもの仕事だからなぁ。えらいぞー」


食の細い子や好き嫌いの多い子だと、料理に工夫が必要で大変だと聞くが、幸生は食欲旺盛で野菜も好き嫌いなく食べてくれるのでありがたい。

これからイヤイヤ期――反抗期が来るのかもしれないけれど、赤ん坊の頃も夜泣きしなかったし、母乳もミルクも嫌がらずによく飲んでくれた。
病気らしい病気も、この間ひいた風邪くらい。

できれば、このまま何事もなく、元気にすくすく育ってほしい。

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