腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
そりゃあもう、戸惑ってますともさ!
「まさか、若旦那本人が来るなんて思ってもみなかったです」
「お店の場所を他人に言うのが憚られまして。一見お断りですし」
だからって左右之助自ら届けてくれるなんて誰が思うだろう。あああ、大ファンなのにすぐに気づかなかったなんて、一生の不覚だ。
「それにしても、どうして今更お財布だけ見つかったんですか?」

「お寺の方で、現金が抜かれてゴミ箱に捨てられていることに気付いたそうです。その旨、舞台運営に連絡がありました」
「それでわざわざ……本当にありがとうございます!」
「スリや転売の被害があるのは分かっていたのに、対策をとっていなかったこちらの落ち度ですから」
感謝を込めて、左右之助さんのお猪口にお酒を注いだ。最初は遠慮がちだったけど、左右之助さんも私のお猪口にお酒を何度も注いでくれる。

そんなに強いほうじゃないけど、憧れの人がお酌をしてくれるなんて、いつもよりお酒が進んでしまった。
「あんた、そんなもんまだ使ってたの」
お替りを持って来たお母さんが、私の手元の財布に目を留める。
「いいでしょ、別に」
「よう似合わんやろに」
ブツブツ言いながら、お母さんは他のお席に呼ばれて行ってしまった。左右之助さんがその背中を見送りながら、クスッと小さく笑う。
「そのお財布、よほど大切にされているんですね」

濃いブラウンのお財布は見るからに男性ものだ。表面に押された焼印がポイントになっている。長命寺の桜餅を象っているらしい。お母さんの言う通り、若い女性には渋すぎるかもしれない。
「修理の跡に驚きました」
「あ……」
中学生の頃からずっと使っている本革のお財布は、解けてしまった縫い目を直したり、ファスナーを取り替えたり何度か修理している。見る人が見れば分かるのかもしれない。
「もしかして、それで届けてくれたんですか?」

「そうでなくても、なんらかの形でお届けしたとは思いますが……直接お渡しして安心していただきたいとは思いました」
「私が持ってる父のものってこれだけなんです」
私のお父さんは美芳のお客さんで、お母さんと愛し合ったけれど家の問題があって結婚できずに亡くなったと聞いている。物心つく前に死別してしまって、私にはいくつか断片的な記憶しかない。
「そうだったんですか」
お母さんが桐箪笥の引き出しに大切そうにこれをしまっているのを見て、どうしても欲しいと駄々をこねてもらったものだ。

「思い出を大切にする方なんですね」
「いえ、そんな」
左右之助さんが真っ直ぐに私を見つめる。
「日向子さん、またお誘いしても良いですか?」
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