想い出は珈琲の薫りとともに
「いいん……ですか?」

 風香の戸籍の父の欄は今空白だ。戸籍なんてそう見ることもないし書類上のこと。そう割り切るのは簡単ではなかった。将来、それが元で風香に辛い思いをさせてしまうかも知れない。そう思うと胸が痛んだ。

「当たり前だろう? 風香は私の子だ。一刻も早く手続きしたいところなんだが」

「でも……。その、おうちのことは?」

 私とは他人でいられても、認知をすれば風香と薫さんは親子になる。そうなれば発生することもあるはずだ。

「それは問題ない。風香は……女の子だから余計に……」

 眉を顰めるその顔は、まるで嫌悪しているような表情だ。それは自分の血筋に対してなのかも知れない。
 薫さんは顔を上げると深呼吸するように息を吐く。

「だが、結婚となると話は変わってくる」

「……結婚?」

「あぁ。洒落たプロポーズ一つできず、すまない。私は亜夜と結婚したい。家族になりたいと思っている」

 その表情は明るいものではない。きっと今この瞬間もさまざまな葛藤をしているのだと思う。

「無理……しないでください。私は形にはこだわりませんから……」

 それは本心だ。風香を認知してもらえるだけで充分だと思っている。それに井上さんですらあんな顔をするくらいなんだから、一筋縄で通用する相手ではないのだ。

 薫さんは静かに首を横に振る。

「亜夜が私と結婚したくないと言うなら諦める。だが、そうでないのなら……諦めたくはない」

「薫さん……」

 なんと答えていいのかわからない。考えあぐねていると、薫さんが口火を切った。

「穂積家は古い家でね。私は本家筋でもないが、それでも祖父の影響は大きい。両親も祖父の決めたことには逆らわない。返せば、祖父の了承さえ得られれば誰にも何も言われることはないんだ」

 薫さんはぽつぽつと話し出すと、それから穂積家のことを語り出した。
 想像以上の家柄。政略結婚など当たり前だと納得してしまう。そしてそこに、私が入る余地など……ない、と思うしかなかった。
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