想い出は珈琲の薫りとともに
 久しぶりに見る薄紅色の暖簾。そこには白い文字で控えめに【小料理屋 (めぐみ)】と書いてある。
 それを潜ると現れるのは木枠の引き戸。記憶よりずいぶんと色褪せていて、その流れた歳月を思い知った。
 その戸をカラカラと開け中に入る。こじんまりとした店内。すぐに見える白木のカウンターの向こうには、割烹着姿の女将の姿があった。

「あら。……いらっしゃいませ。お久しぶりね」

「……ええ」

 時間はまもなく22時。それなりに遅いからかテーブル席に人はいない。カウンターに二人ほど並んで男性客が座っているだけだ。その客から離れたカウンターの一番隅に向かうと腰掛けた。

「お飲み物は何になさいますか?」

 そう言っておしぼりを差し出しながら微笑む女将の顔は、時が止まったように昔と変わっていない。もう五十と少しの年齢になっているが、まだ四十代前半と言っても通用するだろう。

「ビール……いや、冷酒を。食べるものはお任せします」

 女将は私の注文に少し瞳を開く。珍しく私が酒を頼んだからだろう。

「はい。お待ちください」

 穏やかに微笑むと女将は目の前から消えていった。

 しばらくすると女将がやってきて私の前に小鉢を置く。野菜の炊き合わせ、冷奴、造り。元々私がそう食べないことを知っているからかどれも少量ずつ。最後にガラス製の猪口を置くと、「おつぎしましょうか?」と尋ねられた。

「お願いします」

 猪口を持ち上げると女将は微笑を浮かべそれに冷酒を注いだ。

「ごゆっくり」

 それだけ言って女将はまた戻っていく。先客の後ろを通ると、「女将、若い兄ちゃんにはサービスいいな」なんて酒に酔っている下品な声が聞こえた。

「何をおっしゃっているんですか。いつもおつぎしてるじゃないですか」

 女将は気にする様子もなく穏やかな口調で答えていた。

「それもそうか!」

 連れ同士なのか、女将よりかなり年上の男性たちは騒々しい笑い声を上げていた。

(変わらないな……)

 それを見て、私は思わず眉を顰めた。
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