想い出は珈琲の薫りとともに
 祖父に会うと決めてすぐ、私は井上にスケジュールの調整を依頼した。ほどなく本家へ出向く日も決まるだろうと思っていたが、返答は意外なものだった。

「会長はしばらくご都合がお悪いそうです。少し待って欲しいと……」

 井上は自分のことのように申し訳なさそうにそう言った。

「……そうか。また動きがあれば教えてくれ」

 そんなやりとりがあってから早くも二週間近く。本家で行われる盆の集まりは来週に迫っていた。

「薫さん。そろそろ準備を」

「あぁ。わかった」

 八月最初の金曜日。今日はホテルプリマヴェーラの上階にあるバーラウンジとの打ち合わせだ。
 九月下旬からコーヒーを使ったカクテルのフェアをするのだ。最初はバー単独での企画だったが、合わせるコーヒーや淹れ方について相談がありコラボ企画に発展した。その責任者は井上で、順調に事は運んでいる。今日はアルテミスを使い試飲会を行う予定になっていて、自分もそれに参加することになっているのだった。

 アルテミスに向かうと、平日の昼下がりだがウエイティングシートは埋まっていた。
 最初のサマーシーズン。メディアにも取り上げられているおかげで今日も盛況だ。こちらもまたこれからのシーズンの企画を進めていかなければならない。それは井上が主で行われている。秘書という立場を超えた仕事内容に、私は新たなポストの用意を考えていたがやんわりと断られた。

(いずれ、ここを去ることでも考えているのだろうか?)

 井上の実績ならもっと上を目指すことも難しくはないはずだ。社長秘書で収まるような器ではない。少なくとも私は常々そう思っていた。

「お疲れ様です。社長、井上さん。打ち合わせ用のテーブルは確保しています」

 入り口に向かうと現場のチーフが小さくそう声を掛けてきた。先に井上がチーフと共に歩き、私がその後ろに続く。
 店を眺めながら歩くと、ふと見覚えのある人物の顔が客席の中ほどに見えた。

 それは紛うことなき昔から穂積家に仕える運転手の顔だった。
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