想い出は珈琲の薫りとともに
 レトロモダンな造りの廊下を進み、重厚な渋い黒い扉の前に立つと薫さんは軽く三回扉を叩いた。
 その奥から返事は聞こえないが、薫さんはノブに手をかけると扉を開いた。
 中は応接室というにはかなり広い部屋だった。こちらには落ち着いたネイビーを基調にした柄の美しい絨毯が敷かれていた。真ん中にはイタリアのホテルにあったような猫足のチェアが、深いブラウンのテーブルを囲むように八脚置いてあった。
 けれど、そこには誰も姿もなかった。

「お祖父様はまだいらっしゃらないか……。ん? これは……」

 薫さんは部屋にあったものに向かう。この部屋には似つかわしくないと思えるもの。真新しいものではないが、ベビーベッドだった。

「亜夜、お祖父様が用意してくださったのだろう。重いだろう? 風香を下ろしたらいい」

 ふうは熟睡しているのか上を向いて可愛いらしい寝顔を見せている。

「じゃあ……使わせていただきますね」

 ベッドの脇で抱っこひもを外しにかかると薫さんがふうを支えてくれる。ふうは目を開けることもなくそのままベッドに寝かされた。

「よく眠っていらっしゃいますね」

 私たちがベッドを覗き込んでいると井上さんも同じようにふうの顔を見て笑みを浮かべた。

「もうしばらくは起きないかも。お昼寝は結構してくれるので」

 そのぶん目を覚ましたら元気いっぱいではしゃぎ出す。そうなれば話どころではなくなってしまうかも知れない。

(それまでにお話しが終わればいいけど……)

 薫さんが伝えたいことはただ一つ。私との結婚を認めて欲しい。ただそれだけだと言っていた。それだけなのに、薫さんの表情はなんとなく強張っているように見えた。

 扉を軽くノックする音が聞こえると、さっき会った女性が入って来た。

「皆さま、お掛けなってくださいませ」

 柔かに言う女性が押しているワゴンにはコーヒーカップが四つ。フワリと漂うのは、私が先日おすすめしたものだった。

 そして、その薫りの向こう側にお祖父様の姿はあった。
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