想い出は珈琲の薫りとともに
 穂積の本家の大邸宅を訪れたあとだと狭く感じてしまうが、この家もかなり立派な家だった。
 どちらかというと近代的でモダンな家。薫さんは大学を卒業するまでここに住んでいたそうだ。
 二階に上がり、廊下を一番奥まで進む。

「私がこの家で一番気に入っている場所なんだ」

 廊下の突き当たりには扉があり、そこを開きながら薫さんは言う。促されるように先に向こう側へ進むと、そこに広がる景色に思わず感嘆の声を漏らしていた。

「綺麗……」

 小さなバルコニーになっている場所は、きっとこの景色を見るためだけに作られたのだろう。高台にあるこの家からは、遠くに海が広がり、その海の向こうに落ちた陽が、空と海をオレンジ色に染め上げていた。

「よかった。暗くなってしまう前で」

 薫さんも同じように遠くに視線を送ると安堵したように呟いた。

「この景色を私に見せようとしてくれたんですか?」

 その気持ちが嬉しくて笑顔で薫さんを見上げる。薫さんも私に顔を向けて笑みを浮かべた。

「いや。この景色はついで、みたいなものだ」

 薫さんは珍しくフフッと笑い声を漏らすと、私の肩に手を置き、体を自分のほうに向かせた。
 何事だろう? と見守る私の前にひざまずくと、薫さんは私の左手を取った。

「Vorrei vivere con te tutta la vita!」

 顔を上げて綺麗な発音で言うのは、私たちが出会った地の言葉。
 その意味がすぐに出てこず、私は頭の中で必死にそれを訳していた。

(一生……あなたと生きたい……、だ)

「少しキザだった、かな?」

 黙ったままだったからか、薫さんは困ったように眉を下げた。私は慌てて首を振った。

「嬉しい……。嬉しいです。Sì!(はい)。私も、ずっと一緒に生きていきたいです」

 私は精一杯の笑顔で答える。薫さんはとても嬉しそうに私を見つめていた。
 しばらくして薫さんは立ち上がると私を抱き寄せ背中を撫でる。

「私、こんなに幸せでいいのかな?」

 その広い腕の中に体を預けたまま、ふとそんなことを口にする。

「もちろんだよ。亜夜。君は今までたくさん我慢をしてきた。だから、これからはもっとねだって欲しい。自分が幸せだと思うことを」

 頰に涙が伝うのを感じる。それは温かで、とても幸福感で溢れていた。
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