想い出は珈琲の薫りとともに
 風香を抱きしめると独特の甘い匂いがする。それが私を癒し、安心されてくれた。
 跳ねていた心臓は落ち着きを取り戻し、ようやく涙も止まっていた。

「……ごめんなさい。取り乱して」

 二人は私が落ち着くのを黙って見守ってくれていた。顔を上げるとホッとしたような顔が目に入った。

「いや。いいんだ」

 朝陽は、そんな薫さんに頭を下げた。

「俺、金曜たまたま早く帰って。居間で大声で電話してたから全部聞こえて……。だから今日は謝りにきました。本当にすみません。あんなむちゃくちゃな話、無視してください!」

 床に胡座をかいたまま、朝陽は思い切り体を曲げている。

「朝陽君。顔を上げてくれないか?」

 薫さんの穏やかな口調に促され、朝陽はゆっくりと体を起こす。その顔を見ながら薫さんは切り出した。

「気持ちは受け取ったよ。ありがとう。けれど、放置していても悪化するだろうと思っているんだ。だから近いうち、君の家を訪れようと思っている」

 父は昔からお金にうるさいところがあった。会社社長の肩書きに、有名な穂積グループの名前。それを簡単に諦めるとは思えない。もしかしたら、今後もあんな電話をし続けるかも知れない。
 けれど、薫さんなら法的な措置を取ることもきっと簡単だろう。でも、そうせず向き合おうとしてくれているのだ。

「薫さん。一人では行かせません。私も一緒に行きます。行って、ちゃんと伝えます。私の気持ちを」

 真っ直ぐに薫さんを見ると、その顔は穏やかに微笑んでくれた。

「あぁ。一緒に行こう。亜夜が私に力をくれたように、今度は私が力になる番だ」

 今度は私の膝に座る風香の小さな頭を撫でる。

(向き合おう。自分が家族だと思える人たちを守るために……)

 玄関を開けると、もうすっかり雨は上がっていた。

「じゃあ、朝陽。気をつけてね」

「うん。ありがとう、ねーちゃん。……今度は、ゆっくり遊びに来てもいい、かな?」

 朝陽は家には何も言わず日帰りの予定で来ていた。電車の時間も迫っていて、寛いでもらう時間はほとんどなかった。

「もちろん。待ってる。うちの店や薫さんのお店のコーヒー、飲んでもらいたいし」

「飲めるように練習しとく」

 朝陽は大学生らしく明るく返してくれる。ずいぶんと離れていた私たちの間になった距離は、かなり近づいたように感じた。

「では朝陽君を送ってくるよ」

「じゃ、ねーちゃん。また!」

 手を振る朝陽の顔は、嵐の去った空のように晴れやかだった。
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