想い出は珈琲の薫りとともに
「お母さんは、いつか家を出て行く私が困らないように、たくさんのことも教えてくれてた。料理の基礎とか、洗濯や
掃除のしかたとか。だから私、一人暮らしをしてから何も困らなかった」

 それは家のためだと思っていた。けれど、今思い返せば全て私のためだったと思える。

「それに、学生の頃当たり前のように作ってくれてたお弁当だって、いつも彩りもバランス良くって……。友だちには羨ましがられた。テスト勉強で夜遅いときは、そっと夜食置いてくれて……」

 父の目が届かないところで、母は私にできるだけのことをしてくれていた。それが次々に浮かんでは、母の愛情を私に知らせてくれていた。

「お母さん……。今まで私を守ってくれて、ありがとう……」

 手紙にはどうしても書くことができなかった、たった一言。それを口に出すと、母は嗚咽を漏らしながら首を振った。

「ごめんね、亜夜。お母さんが弱いばっかりに辛い思いをさせて。幸せに……なるのよ……」

「うん……。薫さんがいてくれるから……。私はもう幸せだよ」

 それだけじゃない。私には支えてくれる人がたくさんいて、みんなが様々な愛の形を教えてくれた。それはとても幸せなことだ。私は愛されている。だから、それを返したい。
 私の人生を大きく変えてくれた人の美しい横顔を見上げて、そう思った。


 外に出ると、傾いた太陽が山の向こうに輝いていた。懐かしい自然豊かな場所。今その景色を見渡すと、逃れたかったはずの場所は自分の大切な場所に変わっていた。
 都会とは違う、草木の香りが漂うような空気を思い切り吸い込んで車に乗り込んだ。

「もう、いいのかい?」

「きっと……また来れます。今度は風香にも、この景色を見せてあげたいから」

「そうだね。次はそうしよう」

 穏やかにそう言うと薫さんはハンドルを握る。ゆっくりと走り出した車の中から振り返ると、家の外で朝陽が元気に手を振っているのが見える。母はその隣で深々とお辞儀をしていた。きっと私たちが見えなくなるまで続くだろう。
 すべてうまくいったとは言えない。けれど、重く暗い影を落としていた実家の姿は、今はとても眩しく見えた。

「では、亜夜。次に向かっても?」

 来た道を戻るように山を下りながら、薫さんは尋ねる。

「はい。お願いします」

 薫さんに向いて頷いたあと、私はナビをセットする。無機質なアナウンスは、街の中心地にあるその場所への案内を始めた。

 ――そして私はこの日、穂積亜夜になった。
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