想い出は珈琲の薫りとともに
 イタリアで薫さんに出会ったあの時も、鏡の中にはこんな風に着飾った自分じゃない自分がいた。
 輝く夜空のようなドレスを纏ったあの日とは違い、今日は眩しいほどに輝く純白のドレスだ。

 シンプルだけど美しいシルエットのこのドレスは、真砂子が選んでくれたものだ。二人でシフトを合わせて衣装を選びに来た。真砂子は燥ぎながら私を着せ替え人形にして楽しんでいた。
 平日の、それも週の真ん中に挙式する人はそう多くなく、日取りが決まったのはたったの二ヶ月ほど前にも関わらず、満足のいくものを選べた。薫さんにはまだ見せていないから、どう思われるかドキドキするけれど。

「皆様チャペルにお揃いです。そろそろご移動お願いします」

 ホテルのスタッフが声を掛けにくる。サロンの壁掛け時計はまもなく午後二時二十五分。予定通りの時間だ。

「では新婦様、立ち上がれますか?」

 ブライダルアテンダーと呼ばれる介添えのスタッフが私の手を支えてくれる。
 高いヒールを履くのは久しぶりだし、ドレスの裾を踏んでしまいそうだ。
 冷静を装いながらゆっくりと歩く。このホテルでは大半の人がチャペルで式を挙げているらしい。サロンからチャペルへの導線はドレスを着たまま移動しやすいようになっていた。

 建物から中庭に出て、アルテミスの反対側の奥にあるチャペルへ向かうと、そこに二人、私を見て顔を綻ばせた人たちがいた。

「亜夜。とても綺麗よ……。ありがとう、式に参列させてくれて……」

 母が涙ぐみながら言う。
 たしかに、母との関係が前のままだったら私はきっと母を呼んでいなかった。この場に母がいるのは、薫さんのおかげだと、感謝してもしきれない。

「お母さんも……すごく、綺麗……」

 改めて、母は美しい人だったんだと思う。前は艶もなく白髪の混ざっていた髪は黒く染められ艶やかになっている。控えめだけど凛とした雰囲気のメイクを施し、黒留袖を着て立つ姿はお世辞抜きで綺麗だ。

「ありがとう。なんだか恥ずかしいわね。さ、向こうで薫さんが待っていらっしゃるわよ」

 母がベールの端を持つと私は少し身を屈める。下ろされたその向こうに少し寂しげな母の顔が見えた。

「先に待っているわ」

 涙が滲みそうになるのを堪えながら頷く。
 今日はたとえ嬉しくても涙は流したくない。ずっと笑顔でいよう。そう思っていたから。
 母がチャペルの中に消えていくと、私たちを見守ってくれていた人が私に歩み寄る。もう聞き慣れた、杖が石畳を蹴る音とともに。
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