想い出は珈琲の薫りとともに
 まもなく十一月ともなると、さすがに夜は冷え込んでくる。人気のない夜の公園は静かで、私たちの足音だけが響いていた。季節毎に表情を変える花壇には、秋の象徴のようにコスモスが咲き誇っていた。
 家の近くまでタクシーで帰って来ると公園の前で降りた。
 もう少しだけ二人きりの時間を楽しみたいと、ひっそり願っていたのを聞き届けてくれたように、薫さんから「少し寄り道しよう」と言ってくれた。

「寒くないかい?」

「大丈夫です。薫さんの手、温かいですから」

 触れている腕からもその温もりがじんわりと伝わってくる。ホッと安心するその温かさにすり寄るように頭を傾けた。

「今日一日、とても幸せでした。ずっと続けばいいのにって思うくらい」

「そうだね。たくさんの人が心から私たちを祝ってくれた。それが伝わってきた」

 ゆっくりと歩きながら、薫さんは私を見下ろして目を細めてみせる。その表情だけで胸がいっぱいになる。
 
「初めて亜夜に会ったとき……」

 街灯から外れ暗くなった場所で、薫さんは不意にそう口にすると、浮かび上がった夜空を見上げた。私もそれにつられるように空に向いた。
 昼間澄んでいた空はそのままに、明るい星がポツポツと瞬いている。もう少しすれば空は華やかな冬の星座たちが顔を出すだろう。

「瞳がまるで星空のようで、吸い込まれそうな気がした。ずっと眺めていたくなるほど美しくて、一瞬にして魅入られていた」

 まるで星の物語りを聞かせるように語る薫さんの穏やかな声は、空に溶けていくようだ。私はそれに耳を澄ませた。

「あの時は、手を伸ばしても届かない。そう自分に言い聞かせた。美しい月の女神を手に入れることなどできないと」

 独りごちるように呟くと薫さんは立ち止まる。

「けれど、慈悲深い私の女神は全てを赦してこの手を取ってくれた。ありがとう、亜夜。私を愛してくれて」

「薫さん……」

 愛とは何かと問われたら、きっと今のこの湧き上がる感情なんだと答えるだろう。何にも変え難い、不思議な感情だ。

「私も……。同じです。愛しています。これからも、永遠に変わりません」

 込み上げるものを抑えられず唇が震える。けれど必死で言葉を紡いだ。
 目が合うとそこには薫さんが微笑んでいる。その顔が近づくと、そっと唇が重なった。
 柔らかな温もりが遠ざかると、薫さんの唇から笑みが溢れる。

「さぁ、帰ろう。もう一人、私たちの愛する人が待っている」

「はい」

 繋いだ手を離すことなく、私たちは大切な場所へ帰っていった。
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