想い出は珈琲の薫りとともに
 静かな滑りを見せるスーツケースを横に従えて大きな自動扉を潜る。広々としたエントランスには、スーツ姿の人間が忙しそうに行き交っていた。
 キョロキョロと辺りを見渡すと、その姿を見つけてそばに近づいた。

「すみません。お尋ねしたいのですが」

 置物のように立っていたのは、いかにもという服装のガードマン。

「何か御用でしょうか」

 厳つい顔で無愛想に対応する男性に怯むことなくまた名刺を差し出した。

「こちらのかたにお会いしたいのですが、どうすればよろしいでしょうか」

 尋ねられた男性は少し身を屈めその名刺を見ると、また体を起こし指を刺す。

「あっちの受付に聞いてください」

 そう言われた先には、カウンターに澄まして座る女性の姿が見える。

「はい。ありがとうございます」

 私はまた、自分には似合うとは思えない色のスーツケースを引き連れて歩き出した。

「恐れ入ります」

 受付と書かれたカウンターに背筋をピンと伸ばし座る女性に声をかける。

「こんにちは。どのようなご用件でしょうか」

 貼り付けたような笑顔でその女性が言うと、私はまた名刺を差し出した。

「わたくし、市倉乃々花と申します。こちらの会社にお勤めの、穂積薫さまにお会いしたいのですが」

 緊張しながら笑み浮かべそう言うと、相手の女性は余裕のある笑顔を見せた。

「お約束はされていらっしゃいますか?」

「お約束は……。しておりません」

 薫さまがお忙しいかたなのは重々承知している。もちろん突然の訪問で、いらっしゃる確率は極めて低いことも。

「ではお取り次はできかねます」

 私よりそれなりに年上だろうその女性は、勝ち誇ったようにニッコリと微笑んだ。
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