想い出は珈琲の薫りとともに
 水面に顔を出していた鯉も、何も与えられないと悟ったのかまた散らばり何事もなかったように泳ぎ始めていた。
 私はただそれを無感情に見つめながら静かに答えた。

「……はい。またいいご縁があれば」

「なに。お前ならすぐに見つかるだろう」

 祖父は満足気にそれだけ言うと、黒羽二重(くろはぶたえ)五つ紋付きを翻し、その場をあとにしていった。

 私はただそこに立ち尽くしていた。

(何を言ったところで、返る答えは一つ、か……)

 私は先週三十五才を迎えた。
 兄はもうこの年齢には結婚し、子どもも小学生になっていたころだ。もちろん、恋愛結婚などではない。相手はどこかの社長令嬢だったはずだ。

 誰もいない池のほとりで、私は小さく息を吐く。
 
(これで……いい……)

 そう自分を慰めでもしないと、虚しさだけが込み上げてくる。

 乃々花さんと婚約を解消したのはもう一年以上前のこと。それは私の意思ではなく、彼女の意思。市倉の当主自らが祖父に頭を下げ、この《《ままごと》》のような婚約は終わりを告げた。
 そのとき、祖父はすぐに次を探そうとしていた。だが、私は理由をつけそれを止めたのだ。

『今婚約したところで、二の舞を演じることになってしまいます。せめてホテルラウンジの件が落ち着くまでお待ちくださいませんか』

 婚約を解消した理由の一つとして、『薫さまがお忙しすぎたので』と乃々花さんは伝えていた。それは、私がそう言うように言っておいたからだ。
 彼女を放置していたのは事実で、私にも否がある。それに、本当の解消理由を知ったうえで、余計な波風など立てたくなかった。

 その彼女とは今では円満な関係となっている。

 『薫さまは、本当のお兄さまみたいですね』

 心から愛する人の隣で屈託のない笑顔を見せる彼女に、心が救われた気持ちになるくらいには。

(亜夜は……どうしているだろうか)

 偶然会ったのはもう一月以上前。間違いなく彼女だった。
 けれど、会いたいと願った彼女との再会は、願った通りのものではなかった。
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