想い出は珈琲の薫りとともに
 何故、という思いだけが頭の中を渦巻いていた。
 どう歩いたか記憶にないほど動揺していたのだろう。いつのまにか駐車場に辿り着き、車に乗り込むとシートに身を預けていた。

(何故……井上は何も言わない……)

 恨みがましく醜いことを考えてしまう自分がいる。だが頭が冷えてくると、その理由がわかる気がした。自分が亜夜を探さなかったのと同じだ。
 ローマから帰り、連絡を取ろうと思えばすぐ取れた。だが、そうしなかったのは、彼女を穂積の家に近づけたくなかったからだ。
 ただ交際するだけなら祖父も目を瞑っただろう。けれど、それ以上となるとそうはいかない。周囲の反対を押し切ったところで、幸せな未来が待ち受けているとは思えなかった。

(だから……。求めなかった。……探さなかったんだ)

 言い訳のように考える。
 その選択が、今亜夜を苦しめているとも知らず、のうのうと過ごしていた自分が腹立たしくなった。
 二人で撮った、たった一枚の写真を未練がましく見ていたことに、井上はおそらく気づいている。それでも、井上は何も言わなかった。

「求めよ……さらば与えられん。探せよ……さらば見つからん。叩けよ……さらば開かれん、か……」

 ふと浮かんだ新約聖書の一文。
 神を求め祈れば与えられる。そんな意味合いだと教えてくれたのは井上だった。

(私の神は……女神は、ただ一人。彼女だけだ)

 スマートフォンを取り出すと、地図アプリを起動する。元々部下だった唐橋がどの辺りに家を構えたかは覚えている。家の近くには大きな公園があると言っていた。そして……。

「ここ、か……」

 私はその場所を頭に入れスマートフォンをしまった。

(……求めてもいいのだろうか)

 いや、彼女に拒絶されようともう諦めたりしない。諦められるわけはない。

 子どもの名前は『ふうか』。
 漢字などわからない。だが、自分には浮かぶ字がある。

 薫風(くんぷう)。そして私と同じ、香る。

 彼女の想いを知るのは、それだけで充分だった。
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