ピアニスト令嬢とホテル王の御曹司の溺愛協奏曲
「いきなりすみません。そして、来てくださってありがとうございます! この時間だとどこかのレストランに入るところだったのではないですか?」
「いえ。行ってみようかなと考えていた場所はあったのですが、まだのんびりしていても構わないかなと思ってぐずぐずしていたところです」

 この滞在では、これまで出来なかったことをするというのともう一つ、過去に母と過ごした場所を再訪するということも目的としていた。
 それは、言ってみれば初心を取り戻すための原点回帰だ。母のコンクールを見て将来を思い定めた、いわばピアニスト・一条六花の始まりの街であるニューヨークを歩くことで、未来への希望だけを胸に抱いて無邪気にピアノと戯れていた感覚を思い起こそうという意図である。
 その流れで母と行った記憶がある大衆的なレストランの店名を何の気なしに口にしたのだが、ルイはなぜか渋い顔をして首を振った。

「あそこは酔客もいますし、六花さんには似合いませんよ。もっと良いお店にお連れします」
「そうですか……?」

 自信満々に言い切る彼が連れてきてくれたのは、高級なレストランだった。
 如才なくエスコートしてくれる彼に導かれて席に座ると、注文もスマートにこなしてくれる。

「ここは、もともとうちのホテルで働いていたシェフが独立して出した店なんです。兄がいずれは料理長にというくらい目をかけていた男だったので、腕前は折り紙付きですよ」

 逃げられた兄は後任探しでしばらく大変そうでしたけれど、と笑う彼に私は思わず問いかける。

「あの、ルイさんはお兄様とは仲が良いのですか?」

 将来どうするか判断できるほど、今の私はこの兄弟について情報を持っていない。有名な一族なのでネットを見ればルイが同い年でレオが三つ上だとか家族は彼ら二人に父親とルイの実母の四人だとか基本的な情報は色々と転がっているが、そういうものではなくて生身の彼らのことをもっと知るべきだ。
 そんなふうに思っていたところだったため、レオの話題が出たのを好機として少しでも彼ら家族の情報を引き出せればという打算も込めつつ気軽に発した言葉だった。
 それに対し、なぜか彼は一瞬こわばった表情をしたように見えたのだが……もしかしたら見間違いだったかもしれない。
 驚いて見返したときにはすでに彼の表情はにこやかなものになっており、真偽を確かめることは出来ずに終わった。

「そうですね。喧嘩もしませんし、険悪ということはないと思います。日本にルーツを持つ者同士、和の心が根底にあるのかもしれませんね。そういえば、私たちの名前にはそれぞれの母親が付けた漢字もあるんですよ。玲央と瑠偉。美しい音や宝玉から一字と、真ん中や立派さを示す一字の組み合わせです。だから、私たちが美しく調和の取れた関係を保ちつつ立派な人間へと育っていくことは母親たちの願いでもあるのかもしれません」

 そんなことを少し冗談めかして言ってくるルイの表情はまさに兄を慕う弟のものであるように見えたので、やっぱり見間違い説が濃厚だろうかと思い直す。
 その後も彼は会話の主導権を握り、レオの失敗談を面白おかしく話してくれたり自分の携わっている仕事について教えてくれたりした。
 彼ら家族の情報を知りたかった私にとって、それは確かに有意義な時間ではあったのだけれど……どうにも先ほどのルイの様子が心に引っかかってしまい、違和感に思わず首を傾げてしまったのだった。
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