姉の婚約者

ぱちん、と小気味よい音が耳元に響いて、遅れて痛みがやって来た。
美織に頬を叩かれたのだと気づいたのは、そのあとだった。

痛む頬を抑えることもなく、呆然と彼女を見ているだけの私に、彼女は叫んだ。

「……わ、私は、彼のことが大好きだったのよ!」

泣くまいと堪えるその姿が切実で、これが彼女の本音なのだと知った。

彼女が嘘をついたのは、家の為なんかではない。
ただ、好きな人と結ばれたかっただけなんだ。

そのとき初めて、私は美織のことを姉だと思えた。

妖精みたいに消えてしまいそうな女の子なんかじゃなくて。
どこまでも綺麗で優しいお姫様のような女の子でもなくて。

汚い心も、醜い顔もある。
泣いたり、笑ったり、悲しかったり、嬉しかったり。

……普通の人間なんだ。

そりゃあ、食事会で発作の演技もしたくなるわけだ。
だって、本当は鏡夜に抱かれても大丈夫な身体なのに、彼が抱いているのは私だったんだから。

嘘が剥がれた彼女には今、誠実になる道しか残っていない。
それが、彼女の本意ではなかったにしろ。

誠実には、誠実で返そうと思った。
……だから、私は嘘をつくことにした。

そんな嘘をついてまで好きだったのね。
……ごめんね。

なんて、善意はきっと悪意になるから。

私は息を吸って、今度は逆に、彼女の頬を叩いた。

「私は鏡夜なんか大っ嫌いよ!」

頬を押さえて、美織が叫んだ。

「それなら!」

だけど、私は最後まで言わせやしない。

「残念だけどっ! ……あんたの好きより私の嫌いの方が思い入れがあるのよ。そんな簡単に判断されて欲しくはない。……どうしたって、憎めないんだから」

最後は震え声になった私を抱きしめたのは、鏡夜の腕だった。

……あぁ。
あなたまで悪者になる必要はないのに。

それでも、私は嬉しくて彼の服をぎゅっと掴んだ。
そうすれば、彼はどこまでも私と一緒に堕ちてくれる気がしたから。

「……な、何よ……」

本当は、怒った顔の姉に言ってあげたかった。

泣いたっていいんだよって。
奪ってごめんねって。

だけど、そこでそう言ってあげられるほど美織は良い子ではなかったし、私もまたお人好しではなかった。

しんと静まり返った部屋の中で、次に口を開いたのは鏡夜だった。

「……美織、お前は俺が本郷家と縁を切ったと言っても、まだ俺のことが好きと言えるか?」

「「……え?」」

困惑する私たちに、彼はこともなげにこう続ける。

「さっきは、お前が『家が、許さない』とかなんとか言ってきたから、美琴なら問題ない、みたいな返しをしたけど。……実は、洋介に家のことは任せることにしたんだよ」

「……それってどういう、」

「俺が本郷をやめるってことだ」

その方が美琴もいいだろ?
なんて笑うもんだから、私は全身の力が抜けた。

どうやらそれは、美織も同じだったようで。

「はっ、バッカじゃないの?」

「かもな」

飄々と言い切る鏡夜に、彼女は見切りを付けることにしたらしい。

「確かに、鏡夜のことは好きだったけれど。本郷家の後ろ楯もないあんたは何の価値もないわね。……どうぞ、おふたりで幸せに」

そう言って、美織はずんずんとその場を立ち去った。

きっと彼女も分かっていたんだろう。

これが鏡夜なりの優しさだということに。
美織のプライドを砕けさせないための提案をしてきたのだということに。

……あるいは、朝比奈家の長女として生きてきた彼女には恋などよりも大切な何かがあったのかもしれない。

それが、朝比奈家としての誇りなのか、権力欲なのかまでは到底想像も出来ないけれど。

「……美織って、不器用な人なんだね」

「かもな」

こうして、何だかんだ私は姉の婚約者を寝とりました。




……って、あれ?

「ねぇ、さっき、美琴って呼んでくれた?」

「なんのことだよ」

そっぽを向く彼の耳が赤い。
そのことに気づき、ぷっと笑った私に彼が言う。

「おい、なんだよ」

「ううん、なんでもない」

それでもなお、くすくす笑う私に彼が耳元で囁きかける。

「言わないと、犯すけど?」

その言葉に、ぞくりと快感が走り抜けた私はもう色々と手遅れなのかもしれなかった。
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