偽装夫婦のはずが、ホテル御曹司は溺愛の手を緩めない

 意気込みながら試食の感想や会場内のコーディネートをメモしていると、すぐに響一が戻ってきた。

「あかり。ただいま」
「あ、おかえりなさ……ひぁっ」

 スミスという人物には本当に挨拶をするだけだったらしく、響一が会場に戻ってくるのはあかりが思っていたよりもずっと早かった。その響一に声を掛けられたので振り返ろうと思ったら、突然頬を摘ままれた。

 幸い試食に夢中だった他の参加者には気付かれなかったが、つい小さな悲鳴が出てしまった。

「変な声出すのは後にしてくれ」
「……っ……!?」

 悪戯をした張本人があかりの声を咎める。しかも『変な声』に微かな含みを持たせ、『後に』を強調する。さらに席に腰を下ろしてあかりの顔を覗き込む響一の表情は、からかわれて驚く反応をただ楽しんでいるようだ。だから文句のひとつも言いたくなってしまう。

「響一さん、今日はどうしたんですか?」
「ん?」
「なんか、いつもよりスキンシップ激しいです……」

 気のせいではないはずだ。あかりの頬に触れ、愛でるように甘やかし、人目もはばからずに恥ずかしい言動を向ける響一は、いつもの彼ではないみたいだ。

 いや『いつもの』というよりも『今までの』彼ではないように思える。

 響一はどちらかと言うとクールで口数が少ない人だ。もちろんその完璧な姿を保つために隠れて努力をしていることも知っている。家に仕事を持ち帰って、すべての案件に適切な対処ができるよう勉強や確認を怠らない人だとを知っている。

 だからその完璧な姿を自ら崩すような言動はしないはず。一人の女性に夢中になっている姿など、決して表には出さない人だと思っていたのに。

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