身体から始まる契約結婚
紬さんが部屋を出て行ったあと、玄関の扉は閉めなかったのだろう。
あるいは、激昂のあまりそこまで気が回らなかったのだろう。

そうでなければ説明がつかない。

「伊織、迎えに来たよ」
「ど、どうして湊がここに――――」

元彼がセキュリティ万全の新居に入れる確率ってどれほどのものなの?

湊が痛切な表情で私を見たと思った次の瞬間には、素早く彼が近付いてきていた。
そして抵抗する間も与えられず、薬品の染み込んだハンカチを口にあてがわれる。

すぅぅぅっと意識が遠くなっていく。
二度と会わないと約束したはずの元彼が私を見下ろしていた。

そのまま意識を失って、私は彼との記憶を見ていた。




「伊織さん、俺と付き合ってください!」

湊が緊張した面持ちでそう言った。
私はそんな彼の姿が愛おしくて、同時に気恥ずかしさに感化されて、こくりと小さく頷くことしか出来なかった。

だけど私の意図は十分に伝わったらしく、湊は照れたように笑って私を見つめた。

「伊織さん、これからよろしくね!」
「こちら、こそ……」

頬を赤く染めて笑い合ったこの時の私たちを、世界はきっと祝福していた。




「ねぇ、湊。私、仕事に行かなきゃ」
「嫌だ。行くな……ずっと俺の側にいろよ……」

湊が悲痛な声を漏らして、そのまま私に覆い被さる。
恋人同士の戯れが、彼の心を癒すためだけの手段に成り下がったのはいつからだろう。

まるで味のしなくなったガムみたいに、私の心は少しずつ擦り減って、それでも湊のために身体を触れ合わせなくてはいけなくて。

一度、拒んだことがある。
その日、仕事から帰ってきたら風呂場で手首から血を流しながら私を待っている湊がいた。

それ以来、私は彼との行為を拒絶しなくなった。
それでも少しでも嫌な表情を溢すと、彼は私のお腹を殴るようになった。

私は笑顔を張り付けた。
私は湊の望む「恋人」で居続ける必要があった。

しくしくと痛む自分の心には気付かないふりをして、湊の機嫌を損ねないように必死だった。

彼の支配する2LDKの牢獄に、私は閉じ込められていることにすら気付いていなかった。
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