白いシャツの少年 【恋に焦がれて鳴く蝉よりも・番外編】
プロローグ
 磨りガラス越しに、やわらかな朝日が
射し込んでいる。

 夏椿から朝顔の咲くころへと季節は移り
変わり、いまはキッチンの窓の隙間から
空色の花を覗くことが出来る。

 その鮮やかな蒼と黄緑のコントラストに
目を細めながら、蛍里はコトコトと音を
立て始めた鍋の火を止めた。

 刻んだ万能ネギを散らし、味噌を溶かす。

 朝ご飯は温かな味噌汁とご飯、それに
だし巻き卵と漬物を少しだけ。

 それが、いつも夜更けまで執筆をして
いる一久の定番メニューで、蛍里はかれ
これ二年ほど同じ献立を繰り返している。

 「うん、これで良し」

 蛍里は小皿に垂らした味噌汁の味を
確かめると、鍋に蓋をし、するりと
エプロンを外した。





 緑道公園で一久と再会を果たした
あの日から、三年が過ぎた。

 専務職を退き、作家としての才能を
開花させた一久と蛍里の間を阻むもの
は何もなく、二人はようやく恋を実ら
せることが出来たのだった。

 一久の祖父が遺したというこの邸に
越して来たのは、二年前だ。

 新婚夫婦の新居としては、いささか
古すぎる大正時代の家屋を改築し、趣
のある古民家へと生まれ変わったこの
邸に暮らしている。

 ぐるりと枳殻(からたち)の生垣に囲まれ
た広い邸は、詩乃守人の物語の舞台に
もなっている。蛍里は物語の住人とな
ったような不思議な心持で、穏やかな
日々を過ごしていた。

 キッチンを出て彼の眠る寝室へ向かう。

 年月を重ねた木の温もりを感じながら
長い廊下を進み、西側にある和室の扉を
そっと開けると、カーテンの閉め切られ
た部屋の中から、規則的な寝息が聞こえ
てくる。

 蛍里は足音をさせないようにしながら
ベッドに近づくと、膝をつき寝顔を覗き
込んだ。


――上司でもなく。作家でもなく。


 ただ、愛しくて仕方ない人の寝顔が
そこにある。

 端正な顔立ちは変わりなく、けれど
寝不足が祟っているのか、目の下には
うっすらと隈が出来ている。昨夜も、
いつ彼がベッドに潜り込んだのか蛍里
はわからない。改稿に手間取っている
と言っていたから、明け方まで起きて
いたのかも知れなかった。

 蛍里はしばし、夫の寝顔を堪能すると、
枕元に置いてあった本を手にし、静かに
その部屋を去った。






 「……きれいな空」

 広い和室から続く広縁に立ち、朝の
空気を吸い込む。もう、白い花を落とし
てしまった生垣の枳殻は、それでも緑色
の果実をつけ、青々とした葉が空の色に
映えている。

 蛍里は、庭の左手にある物干しを見、
一瞬、洗濯機を回したい衝動にかられ
てしまったが、すぐに思い直した。

 一久を起こしたくはない。

 もうしばらく、ここで大人しくして
いよう。

 蛍里は「よいしょ」と縁側に腰かける
と、沓脱石(くつぬぎいし)に置かれている
木のサンダルに足を通した。

 そうして、本に挟んであるしおりを
外した。

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