好きになったのが神様だった場合
言ってから、そっと狐を地面に置いた。狐は数歩進んでから一旦振り返り社に入っていく。その様子を明香里は見ていた。

(……ここが住まいなの?)

思わず見回した。本殿と社殿と、そこから続く神主が住まう住居がある。水天宮の関係者かと思えたが、明香里はここの氏子だ、ここの神主一家は知っている。神主とその息子の禰宜の夫婦と、そして二十代半ばになる跡取り息子の四人住まいのはずだ。その顔も知っている、その中に天之御中主神と合致する者はいない。
いったいどこの誰なのか──明香里は溜息を吐いた、届かぬ想いの行きつく先が判らない。せめて手紙を読んでくれたら……そんな慎ましい願いをして、社に背を向けて歩き出す。

その背を見送ってから、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)は狐から簪を受け取り、文を外した。

「天之御中主神さまぁ。女子(おなご)の体とはいいものですなあ」

狐はさほどない鼻の下を伸ばして言った。

「わたくしめ、あの娘にぎゅっとされてしまいました。ああ、いい思いをさせていただきました。あの娘、見かけによらず胸が大きいですなあ。ほよん、と、ふわん、と、たゆんとした胸に挟まれてしまいましたぞ。やはり女子はいいですなあ、その体からはとても良い香りがして」

狐の戯言は聞き捨てならず、天之御中主神は指を振るって供えられていた榊の葉を狐に叩きつけていた。狐はきゃん、と声を上げてその場から逃げ出す。

天之御中主神は厨子の奥で手紙を広げた。短時間だった割には綺麗な字で書かれた手紙だった。

『あめのさん
  かんざしは間違いなく私の物です。あなたが拾ってくれていたんですね、ありがとうございます。わがままを聞いてくれるなら、それは直接手渡しで返してもらえませんか?
  明日の同じ時間に来ます。よろしくお願いします。
 明香里』

読んで、天之御中主神の霊体の瞳に涙が浮かぶ。
暗に逢いたいと言っているとわかった、ほんの少しでもいい、どうしても逢いたいからの条件だと──。

「──叶えてやりたくても、叶えてやれんのだ──」

どうしたら顕現できるのかがわからない、それさえわかれば苦労はしないのに。

「俺とてお前に逢いたい、いや逢ってはいるな。目を見て言葉を交わしたいのだ。お前のあたたかさに触れたいのに──」

唇を噛み、拳を握り締め額に押し付ける──どう苦悩しても、それは叶えられない。神なのに神に祈ってもそれは実現しない。やはり神などいないと蔑んでみても事態は変わらない。

「──明香里……!」

厨子の高さにあった手紙がふわりと落ちかける、それが風に飛ばされ横に凪いだ、いや窓も戸も開いていない、風が吹くわけないのだが。
そよいだ風はやがて渦を巻いて、社の中に吹き荒れる。

「天之御中主神さま!」

狐が飛ばされまいと床にしがみつきながら叫ぶ。

「お気を確かに! 一途過ぎる思いは危険です! これ以上の乱れは祟り神に堕ちますぞ!」
「──堕ちて叶うならば望むところだ」
「天之御中主神さま! そんな姿を明香里殿が見たら嘆き哀しみましょう!」

明香里の名に、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)ははたと意識を取り戻す、途端に室内の嵐は止んだ。だが風に飛ばされ乱れた調度品が散乱している。

「ああ、全く片づけを誰が……」

狐が呟いた時、社殿と社務所を繋ぐ扉が開いた、狐は慌てて物陰に潜む。

「う、わあ! なんだこれ! 泥棒か!」

禰宜(ねぎ)美園泰道(みその・たいぞう)が声を上げながら入って来た。

「全くぅ! なくなったものは……」

まずは厨子を見た、奥にある依代(よりしろ)を確認する、何より大事なご神体は無事だった。美園は安堵の溜息を吐く。

「やれやれ。紹子と健斗(けんと)に手伝ってもらって……」

妻と息子の名前を言いながら泰道は出て行く。

天之御中主神は霊体の手をかざした、床に落ちた簪と手紙がふわりと宙に浮き上がる。それはふわふわと厨子に向かって漂い、その最中に手紙は元のように折り畳まれ、結びの形になると、二つ揃って厨子の奥深くに入った。
天之御中主神もまた。神籬の中で小さく、小さくなる。己の心とともに。

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