好きになったのが神様だった場合
「──だって。ずっと好きな人がいたんだから。他の人なんて。興味ないよ」

はっきりというのはなにか悔しくて明香里は小さな声でいった。だが天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)にはしっかり聞こえた、にこりと笑って応じる。

「そうか、そうか。あやつとはあの場限りだったのか、うむ、許してやろう」

途端に雨は止んだ。

「あの日だけだったからな、明香里が男と現れたのは」
「んもう……そんなとこは見てるんだから……!」

本当に見ていてくれたのだとわかり顔に朱が昇る。なにか余計なことはしていかなったかと心配になってしまう、たとえばお尻を掻いていなかった、などだ。

「明香里」

好きな人に名を呼ばれるだけで嬉しくなると、初めて知った。

「頼む、これからも逢いに来てくれ。毎日とは言わん、時間の許す限りでいい」
「うん、来るけど──でも、ずるいよ、私は天之(あまの)くんがいるのわからないのに」

わがままだとわかる、それでもこうして言葉を交わす喜びを知ってしまったのだ。それが今日で終わりだとしたら、とても悲しい。

「心配せずとも、狐が協力してくれる」

突如名前が出た白狐はきょとんする、明香里も、え?と言いたげに、きちんとお座りの形で座る狐を見下ろした。

「何度か逢っただろう。その時俺はこの体に憑依していた」
「そうなんだ……!」

人懐っこい生き物だとは思ったが、中身が人、ではなく神様だったとわかれば納得できた。

「顕現の仕方は未だにわからぬ、だが狐の体を借りるのは容易だ。お前が来たら狐となって現れよう」
「そんな、勝手なことを……!」
「よろしくね、狐さん」

優しい声音と笑顔で言われ、白狐は途端に、でれん、と顔を崩した。

「あのう……では、お逢いする度に、必ず抱き締めてくださいますか?」
「え? それくらい、いいけど」

答える明香里の目の前で、狐は不自然に空中に舞い上がった。
四肢をぶらんと下げた状態で掲げられたのは、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)の目の前だった。首根っこを掴まれ、狐は天之御中主神と視線が合わせられない。

「狐、とんだ猥褻(わいせつ)発言だな」

以前、狐が明香里の胸がどうとか騒いでいたのを覚えている。

「そんな。誤解で。わたくしめは神使の役目を粛々と果たそうと」

狐は口だけは真面目なことをいいながら、視線を彷徨わせている。明香里だけが意味がわからない。

「どうせ俺が憑依していては、感覚などないんじゃないのか?」
「全くないわけではございません」
「なんだと? なおの事、許可できんな」
「それは明香里殿とわたくしめの取り決めでございます」
「うん、私はいいよ」
「明香里!」

天之御中主神は怒鳴ると、狐を放り出した。

「きゃん」

可愛い声を上げて狐は地面を転がったが、すぐに体勢を整え起き上がったのはやはり獣のなせる業か。そして天之御中主神を見上げた、天之御中主神は明香里をその腕にきつくきつく抱き締めていた。

「あ、天之(あめの)くん……」

嬉しさに声が震える。

「触れていいのは俺だけだ。いいな」

甘い束縛に、明香里は頷いていた。そっと背中に手を回す、天之御中主神は体も少しひんやりと感じた、夏の名残の暑さには心地よい。

「あのさ」

明香里は天之御中主神の腕の中で小さな声で言った。

「ん?」

明香里の耳元で、天之御中主神は答える。

「少し……一緒に歩きたい」

デートのようなことをしてみたい、そう思って提案していた。

「あまり遠くへは行けぬが、それでもいいか?」
「遠くって?」
「先日の祭りの晩も、行けたのは一ノ鳥居までだった」
「一ノ鳥居?」

その境内にある鳥居かと思ったが、その外へ出たことは間違いないので明香里は不思議に思う、明香里はかつて参道がもっと長かったとは知らない。

「先日、屋台があった辺りまでだ。かつてこの周辺は鎮守の森に囲まれていた、その範囲ならば神域だから行けるようだ」
「うん、じゃあそこまででいい」

互いに腕を解き、石の台座を降りた。摂末社を繋ぐ、濡れた細い参道を手を繋ぎ歩き出す。
きゅっと握り合う、互いの手が心地よかった。
そんな二人の後ろ姿を狐は見送ってから、社に戻って行く。

その様子を、社務所から見ている者がいた。禰宜の一人息子、美園健斗は二十三歳、独身貴族を満喫中だ。

「──まだ日も高いと言うのに、人気のない裏手で逢引きとは、近頃の若者は──」

嘆息したが、すぐに「ああ」と呟いた、明香里が水たまりを避けたのが見えて、単なる雨宿りだったのかと納得した。先程の雨にはさすがに驚いた、突然降りだしただけでなく、境内のごく一部にだけ降っていたのだ。
手を繋ぎ歩くふたりは美男美女のカップルだと思った。女は近所の高校の制服だが、男は浴衣姿とちょっと不思議なカップルでもあり、少し目立った。
見るともなく見つめていたが、その視界の端でするりと白い物体が走り去るのが見えた。

「ん?」

視界に収めた時にはその姿は既になかった、視界の端でも見えた姿は白い犬かと思えたが、今時この辺りに野良犬はいない。

「──ハクビシンかな? 居つかれても困るな、駆除を依頼するか……」

父に相談しようと、首を掻きながら奥へを消える。
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