君が夢から醒めるまで

12


 電話を終えた彼は慌てた様子で謝ってきた。すぐに文さんの家に行かないといけないという彼のことも、突然電話をかけてきた文さんのことも心配になった私は無理を言って一緒に行かせてもらうことにした。
 その町へは一度しか行ったことのないはずなのに、車窓からの景色も駅に着いてからの景色も、私にとって新鮮さは感じられなくて、慣れた足取りで彼女の家まで向かう。彼はずっと無言でその表情が晴れることは一瞬もなかった。

 彼は家に着くなり大きな声で彼女の名前を呼び、部屋中走り回ってその姿を探した。その慌てぶりに彼女の身に何があったのか聞かずにここまで来てしまったことに気づく。だけど彼の様子を見る限りはただごとではなさそうだった。

「匠真、こっちだよ」

 その声は義文さんの書斎から聞こえた。襖を開けると彼女は布団に横にはなっていたけれど、顔色も良く元気そうに見える。

「あーもう心配したんだよ!大丈夫なの?」

 取り乱す彼に彼女は目を閉じて小さなため息をつく。それでもどこか少し嬉しそうに見えるのは、きっと彼が駆けつけてきてくれたからだろう。

「もう、匠真は大袈裟すぎるんだよ。ただのぎっくり腰だって言ったじゃないか」

「ぎっくり腰?」

 私は驚いて彼の顔を見た。目が合った彼は小さく頷いてから再び横になっている彼女に心配の圧をかける。

「たかがぎっくり腰っていう歳じゃないんだよ?それに一人なんだからさ、何かあったらどうすんの」

「はいはい、分かりましたよ。———琴音ちゃんまで来てもらって、ごめんね本当に」

 彼女は彼の少し過度な心配を軽くあしらって私に頭を下げるフリをした。私ももっと大ごとかと思っていたので今多少安心してしまっているけれど、彼の言うように若者のぎっくり腰とは訳が違うのも確かだと思った。食事だって作れないだろうし、買いに行くことだって不可能だろう。

「いえいえ全然です。あの、文さんもう食事は済みましたか?もしまだなら、私なにか作りましょうか?」

「本当かい?それは嬉しいなぁ。冷蔵庫に色々入ってるから好きなように使ってもらっていいよ。ほら、匠真、あなたも一緒にお願い」

 彼女はそう言うと彼を手で振り払うように部屋から出した。そのやり取りがあまりにも自然過ぎて私は不思議に思いながら、彼の案内のもと台所へと向かった。

 冷蔵庫の中は綺麗に整えられていて、彼女が普段きちんとしたものを食べていることがよく分かった。

「何作ろうかな」

「夜はやっぱりまだちょっと冷えるし、温かいものとか?」

 彼の言葉を参考に野菜室を開くと、そこには色とりどりの野菜たちが顔を出していた。

「野菜もたくさんあるし、鍋とか?」

「お、いいね!じゃあそれで決定。俺も手伝うから何でも言って」

「じゃあまずはこの野菜洗ってくれる?」

「了解!」

 想像以上に手際良く動いてくれる彼に感心しながら私も鍋にお湯を入れる。普通人の家の台所に立つと自分の家と勝手が違って難しく感じるものだけど、調理器具も分かりやすく整理されているこの家では意外にもそつなくこなすことができた。

 二人でテンポよく調理を進めると鍋はあっという間にその形を現した。ぐつぐつと音を立てながら野菜たちが踊っている様子を見ている私に「ごめんね」と彼が小さな声で言う。
 振り返ると彼は申し訳なさそうに唇を控えめに噛んでいた。

「なにが?」

「えっ、なにがって……」

 彼は驚いた様子でこちらを伺いながら言葉を探し始めた。それから言いにくそうに開かれた口は小さく、少し震えているように見える。

「告白、してくれたのに、俺返事もせずにここまで来てしまったから」

 その言葉を聞いて公園での自分の一連の行動と発言の脳内再生が始まった。彼が言ったように告白には返事がつきものだということを今やっと認識する。自分の気持ちを伝えることに精一杯で、それが伝わったらそれがひとまずのゴールだと思っていた。そんな私に彼の返事は受け入れられるだろうか。

「え、あの、いいの!」

 私はいつも怖くなると逃げる。昔からそういう人間だった。

「え、やだ!」

 彼は首を大きく横に振って私の方へ一歩ずつ近づいてくる。古い家の床が彼の歩幅と共に小さく音を鳴らした。早くなる鼓動に私が耐えきれなくなる寸前で、書斎から文さんの声がした。大きな声で彼の名前を呼ぶ彼女に対して「あーもう」と彼は小さく呟くと、ドンドンとわざとらしく大きな足音を立てながら彼女の元へと向かった。

 ほっと胸を撫で下ろすと、食欲をそそるいい匂いを運んでくれる鍋の火を止めてから食器の用意を始める。もちろん食器棚の中も綺麗に分類されていて、三人分のものを用意するのに時間は一切かからなかった。

 食器の鳴る音が聞こえて慌てて戻ってきた彼は私の顔を見ると「はぁ」と小さく息を吐いた。今日はよくため息を聞く気がする。わかりやすく落ち込んでいる彼には申し訳ないけれど、私はバレないように小さく笑った。

「文さん、なんて?」

「あぁ、本棚にある本を取ってくれって。おとなしく寝てろってね」

「ははは、いつもきちんと家事やって忙しいから、きっと動けなくて退屈なんだよ」

 冷蔵庫に鍋に食器、そのどれもが彼女の日頃の行動を物語っていた。私の発言に「まぁそうなんだろうけどさぁ」とまだ一人でぶつぶつと言っている彼を横目に見ながらお盆に食器を乗せる。こじんまりとした台所に若い男女が二人。まるで新婚夫婦のようなその光景を私の無意識の中に存在している第三者目線の自分だけがそっと見守っていた。


「今日はもう遅いから二人とも泊まっていったらいいよ」

 夕食後の片付けを済ませて三人でお茶を飲んでいたときだった。彼女が突然そんなことを言い出したので、動揺した私は湯呑みを持つ手が震えてしまった。そのせいで苦い茶葉が口の中へ入ってきて、思わず顔をしかめた。

「いやいや、俺はいいけど浅倉さんは気遣うでしょ。まだ終電もあるしちゃんと送って帰るよ」

 若干焦っているように見える彼がそう言うのを見て私は考えた。彼は本当にそれでいいのだろうかと。散々文句を言っていたけれど、彼女のことが心配でたまらないことは、あの電話のときから十分に伝わっていた。

「じゃあお言葉に甘えて。泊まらせていただきます」

 驚くほど自然に、その言葉は私から流れ出た。そしてその選択を彼女は言葉ではなく、その表情で快く受け入れてくれた。
 彼はそれから何も言わなかったけれど、お茶を飲みながらちらちらとこちらを窺い見る視線は痛いくらいに感じられた。
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