君が夢から醒めるまで


 俺を見つけた琴音は俺の名前を呼んでくれた。それなのに俺は知らないふりをした。だって俺はもう彼女の知っている一ノ瀬匠真ではないから。
 俺の言葉に絶望したように走って逃げる後ろ姿をどれだけ追いかけたかったか。できることならすぐにでも追いかけて、全てを打ち明けてしまいたかった。だけどそんなことをする資格も、勇気も、俺にはなかったんだ。

 琴音は昔から辛いことや悲しいことがあると走ってその場から逃げてしまう。中学生のとき、当時流行っていたのが第二ボタンの予約。俺がクラスメイトから頼まれている姿を琴音は陰で見ていた。その存在に気づいた俺はわざと小さな声で返事をした。聞こえない声で言ったら気にしてくれると思ったから。だけど気づいた時にはもう小さな後ろ姿しか見えなかった。そうやっていつも逃げていく、琴音はそういう人間だった。

 彼女の変わらない姿に心臓が高鳴る反面、その苦しそうな姿が俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。
 もう、関わるつもりなんてなかったんだ。関わってはいけないと、そう思っていた。それが琴音を守る唯一の方法だと、俺自身が一番よく分かっていた。

 だけどもし、もしまた君に会えたら、その時は今の俺として君に近づきたいと思った。飯村匠真として君の傍にいたいと、そう思った。

 そんなとき、偶然立ち寄った喫茶店で君を見つけた。きっと神様がくれた最後のチャンスだったんだと思う。もう押し寄せてくる想いを止められなかった。
 もう一度、君の傍にいたい。君の傍で笑っていたい。君と一緒に、笑っていたい。そんな想いが俺を覆い尽くした。

 そうやって俺は君に二度目の恋をした。
 飯村匠真としてでいい。君に今の俺を好きになってほしい。そう願った。

 少しずつ新しい俺に気持ちを寄せてくれる君が愛おしくて、その幸せを何度も噛み締めた。そして君がもう一度俺に恋をしてくれたとき、俺の中に生まれてしまったのが、欲だった。

 本当の俺を、見つけてほしい。
 そんな願いを抱いてしまった。琴音の中に上書きされていく今の俺との思い出が、過去の俺を消してしまうのが怖かった。忘れてほしくない。過去も現在(いま)も、どちらの思い出も君の中に残してほしかったんだ。

 だけどそれが君を困らせていることも、苦しめていることも、本当は分かっていた。飯村匠真と一ノ瀬匠真を重ねる度に、琴音はいつも苦しそうに俺を見つめた。それでも俺は、琴音が本当の俺を見つけてくれていることがたまらなく嬉しかった。


 だけどそれでは駄目だったんだ。俺が琴音に近づけば近づくほど、悲しむ人がいた。
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