溺愛もふもふ甘恋同居〜記憶喪失な彼のナイショゴト〜
 だが、サイン会開始直前に、「計算上では一人につき三十六秒でちょうど一時間よ」と茉莉奈(まりな)に言われ――。
 結果的にそれは〝そうしろ〟と言うことだよな、と言外に込められた圧を感じ取った信武(しのぶ)だ。

 信武は机の上に置いた腕時計の秒針をチラチラ気にしながら、一人なるべく三十秒以内を目処にサインをこなした。

 一見単純なことに思えるこの時間管理というプレッシャーが、正直かなり神経をすり減らす作業だったから。

 せっかく会いにきてくれたファンに、もっと丁寧なサービスを心掛けたいという思いとは裏腹、時間がそれを許さないもどかしさに、心がささくれ立つ。

 だがその甲斐あって、ほぼ一時間で最後の一人というところまでこなすことができた信武だ。

 時計を見ると、二分くらいゆとりがあって。
 これでラストだと思うと、最後尾だし、長く待たせちまったよなという思いも手伝って、つい丁寧に対応しようかななんて思ってしまった。

 ラスト十人ぐらいは正直気持ち的に限界で、うまく日和美いうところの〝不破(ふわ) 譜和(ふわ)さんスマイル〟で対応出来ていたか自信がない。

 サイン会開始すぐの頃は、結構ファンの顔を見て話をしていた信武だったけれど、気がつけば手元と時計ばかりを気にしていて。「有難うございました」とサイン本を手渡すときにだけチラリとファンと目を合わせる感じになってしまっていた。

(あー、ホント俺、何やってんだよ)

 最後の最後になって、そんなことを反省すると言うのはどうかと思ったが、しないよりはマシだろう。

 グッと気持ちを引き締めてペンを握り直したと同時。
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