青に染まる
「汀さん」

 兄だったはずの人がおれを呼ぶ声。振り払いたいのに、ずっと耳にこびりついて離れない。あんな他人行儀な呼び方はされたくなかった。

 あの野郎が嘘を吐いていた、というわけではなさそうだ。あの野郎を庇う兄貴の目は、あの野郎を決して他人扱いしていなかった。……思い出したというのは事実だろう。

 家の扉を乱雑に開け、閉める。戸の滑りの良さ故に大きな物音がして、居間にいた叔母が怪訝そうな目で見てきた。しかし何も追及することはしない。

 おれがここに手伝いに入ってからもう十年は経った。毎日あの花屋に行っていることは叔母の知ることだった。叔母も軽くはあの事件のことを知っている。おれの心情は察しているのだろう。

 悔しい。悔しくて仕方がない。

 何故、兄貴をあの状態まで追いやった裏切り者が思い出され受け入れられて、ずっと待っていたおれの方が傷つかなきゃならないのか。気に食わなかった。

 叔母に与えられた部屋に着き、ぱたりと扉を閉める。鍵をかけた。そのままずるずると崩れる。

 声は出ないが涙は零れていた。喉元につっかえるような思いが胸を占める。

「兄貴……」

 届くことのない、その言葉。通じることのない、呼び声。

 なんで、なんでなんだ!?ずっと兄貴の隣にいたのはおれだろう!?ずっと兄貴を守り続けてきたのはおれだろう!?ずっと兄貴を想い続けてきたのはおれだろう!?

 何故兄貴を傷つけたあいつのことは思い出して、守っていたおれだけ輪の中から追い出されるんだ?

 兄貴を殺しかけたのはあいつだろう!?兄貴の信頼を裏切ったのはあいつだろう!?兄貴を苦しめ続けたのはあいつだろう!?

 何故そんなやつを思い出して、おれは忘れられたままなんだ。本当に許せない。
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