いっそ、君が欲しいと言えたなら~冷徹御曹司は政略妻を深く激しく愛したい~
「では行きましょうか。史織さん、イタリアンは大丈夫? 好き嫌いやアレルギーはない? ああ、堅苦しい店じゃないから、気を楽にして」

「好き嫌いもアレルギーもありませ……じゃなくて、あの、わたし……」

「あちらに車を停めてあります。店も近くだから。そうだな……ひとまず今回はアルコールはなしにしよう。最初から飲ませて警戒されたら悲しいし」

 どうしたらいいものかあたふたする史織を意に介さず、泰章は彼女の背中に手を添えてスマートに方向転換させる。そのまま彼にうながされるまま歩きだしてしまい、さらに頭が動揺する。

(ど、どうしよぅ……素直に誘われていいんだろうか。でも、お客さんだし……、いや、客としてではないって言ってくれてるから……)

 迷っているうちに、どう見ても高級車だと思しき車に乗せられ、泰章と食事をすることになってしまったのである。


 ――今までなにが起こっていたのだろう……。

 そんな思いにとらわれつつ、史織はアパートの玄関に立ちつくす。

 目の前にあるのは、見慣れた部屋。玄関を入ってすぐの台所、仕切りの引き戸はいつも開きっぱなしで、ベッドやテーブルを置いた部屋が丸見えだ。

 物は少ないが使いやすく住み心地のいい1Kの部屋。史織はここでひとり暮らしをしている。

 ホームセンターやリサイクル店でそろえた家具や食器、目を見張る贅沢なものではなくともすべて史織が気に入ったものばかりでできた部屋。

 平平凡凡な日常でも、それを楽しんで不満など一切ない毎日。

 なのに。

(いきなり異世界にでも行った気分だった)

 短く息を吐き、史織は泰章と過ごしたこの数時間を思い返そうとした。

(いや、待て待て、ちょっと待て)

 自分の思考にストップをかけ、ひとまず落ち着くために台所で蛇口をひねって水を飲む。生ぬるさに己の性急さを悔やみ、仕切り直しに冷蔵庫から冷たい麦茶を出し、コップに注いでローテーブルの前に座った。

「よし」

 軽く深呼吸をして、冷たい麦茶で体内の熱をリセットする。これで心置きなく回想できる。

 我ながら、なにを大袈裟なことをしているのかと思わなくもないのだが、ここまで覚悟しないと思いだすのも勇気がいるのだ。

 つまりはそれだけ、史織のような平凡の中で生きている人間には刺激が強すぎる数時間だった。
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