ゆびきりげんまん
 私は随分と欲張りになっていたのだと改めて気付く。

 葵君と言葉を交わせるということは奇跡に近いことなのだ。

 ううん。目が合う、それですら十分幸せなことだったのだ。


 葵君を見つめる。
 葵君が気付く。
 そして笑ってくれる。

 それは些細なようで些細ではない。とても恵まれたことなのだ。

 私はそんな幸せを大切にしようと思った。

 私とともちゃんは移動教室のときはなるべく一年生の階の廊下を歩くようにした。

 葵君を避けていたときを取り戻すように、私は葵君と何度もすれ違うたびに声をかけた。




 そして、家では懸命に『スケルツォ』の二番を練習した。
 練習しているときは葵君と時を共有しているような気持ちになれた。


「随分とよくなったじゃない。もう少しで合格ね」

 ピアノの先生からも褒められることが増えた。


 私は考えるようになった。音大は今からでは無理かもしれない。でも、ピアノの道はそれだけではないのではないか? 

 私、確かに葵君レベルの才能や情熱はないかもしれない。

 でも、やっぱりピアノが好き。それだけは言える。

 これからも続けたい。

 そう思い始めていたとき。


「沙羅ちゃん。講師免許を取る勉強をする気はない? 可能性を広げる意味でもいいと思うのよ」


 ピアノの先生に言われ、私は道が開けたような気がした。


 私はピアニストにはなれないに違いない。

 でも、子供たちにピアノを教えることだってきっと素敵だ。

 音楽の楽しみを子供たちに伝えることができたら。

 私の道。


「講師免許、取りたいです」


 私はそう答えた。


「そう。なら大学に入って落ち着いたら、その勉強を始めましょう。受験勉強で忙しいとは思うけど、ピアノの練習は欠かさないでね」

「はい。よろしくお願いします」


 私は講師免許を取るための課題曲、自由曲、そして楽典の勉強を大学受験後に始めることになった。 

 音大を諦めてから、なんとなく大学進学して、就職できるところに就職してと安易に考えていた自分。

 そして、そんな自分と葵君とを比べて情けなくなって、恥ずかしくなって、辛くなった。

 でも、今は思う。

 少しでも葵君に近づきたい。

 葵君みたいになにかを頑張れる人になりたい。
 
 私は勉強と共にピアノの練習にもより力を入れた。



 ただ、それでもまだスケートリンクには行けなかった。

 まだ葵君の輝きを直視できない。

 そんな風に思っていた。
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