丸いサイコロ
13.嫌いになりたい、と好きになれない、の違い
一階、鍵室に行き、《予備》で、まつりの部屋の鍵を開けようとしたが、ドアの内側からの、入っていいよ、によって、その必要がなくなった。
ぼくはためらわずに中に入った。
そこそこ良い値段のホテルみたいな部屋。面白味もなにもない、小綺麗な、ベッドやユニットバスのついた部屋。一言ではつまり、ゲスト用の宿泊施設だ。
まつりは、ロッキングチェアで、ゆらゆら揺れながらどうかした、と聞いた。
穏やかな表情からは、何もうかがえない。
「騙されるとこだったよ。糊まで使うなんて、なかなか手が込んでたじゃないか」
「――ああ、バレてた?」
「もちろん。ツメが甘いな」
「騙されるところだったんだろう?」
何でもないことのように、まつりは答えた。そこまで、怪我自体には、深いこだわりがなかったのかもしれない。そう思うほど、あっさり。
「……一瞬だけな。びっくりしたよ。そのときのやり方とかは、まあ、どうでもいいけどさ。そもそも小さな女の子にあんな役をやらせるなんてのは、本当はお前、好きじゃないだろ? お前が正面から受けて、まったく避けてないのも、疑問だった」
「……買いかぶりだね」
「別に、お前の優しさについて言いたいんじゃない。むしろそれは後付けだ。そうじゃなくともバレバレ。ツメが甘かったな」
「ふふ、面白いね。一応、興味がないけど聞いとくよ。なんで?」
「あんまりそれらしく固まってなかったとか、血の飛びかたが不自然だとか、いろいろあるんだけどさ……」
腹を怪我してるのに、平然としゃがんでいた、というのも付け加えようかと思ったが、いろいろと気まずいことを思い出して、やめた。
「あっはははは! 《夏々都くん》は、面白い。本当に面白いなー! で、それで、どうして、わざわざたずねて来たんだよ?」
まつりは、シャツを僅かに上げて、こちらに肌を見せた。傷ひとつなかった。
《手当て》の跡さえも、なんにも。
「聞きたい。コウカさんまで、巻き込んで、お前は、なにを――示したいんだ?」
すれすれ避けて、しかし、傷を付けたと思わせたことに、何か意味が?
「――実験自体は、もうだいたい終わったよ。知りたかったことも、だいたいわかってきた。あとは、組み立てと推測の証明かな」
「おい」
ぼくが、手を伸ばしたわけではなかったが、ぼくが触れるより先に、まつりは、ぼくの右腕を掴んだ。
強く、赤くなるくらいに掴んで、それから言う。
ゾッとするほど優しい笑顔だった。
「んー、ふふふ。わざわざ聞きに来るんだから、推論のひとつくらいは、聞けるのかな? だよね?――じゃなきゃ、言うことはひとつだよん。わかるでしょ」
自分で考えろ。
その通りだ。
ぼくは数秒、考えた。
そして、口を開く。
「――お前は、あそこに匿ってもらったときから、ぼくの場所に気付いていて、エイカさんとも親しくて、それで、こっそり、野菜とか、食事に持たせてくれてて……でも、ぼくに会うとまずいから、気を付けてて、えっと……その辺を《ぼくを誘導して逃がした》って話に持ってきて、ケイガちゃんを怒らせて……それで。あ、ヒビキちゃんなんだっけ。あの刃物は彼女が最初から持ってたやつで……」
まつりは、愉快そうに聞いていた。
なんだか、やはり、うまくまとまらない。ひとつひとつに、筋道が立てられない。
にやにやと微笑したままのまつりは、ロッキングチェアから降りて、床に、乱暴に方膝を立てて座って、言った。
「だめだなあ。相変わらず順序が飛んでるなあ。まず、目的は?」
「ぼくの記憶の、曖昧な部分、そしてお前の記憶の繋がらない部分を補正すること?」
「まさかあ! 違うよ違うよ、それは、一石の方じゃなくて、二鳥のうちの一羽かな。ついでだよ、ついで」
「えっと、一石……っていうと」
「今日の出会いそのものを、組み合わせたことだ。たまたま、条件が揃ったからね」
「条件?」
「――遠い昔、お城の地下で迷子になってたお姉さん。数年後の、お姉さん連れ去り事件。今になってそのお姉さんを探す、身元のわからない小さな女の子。あの事件とは別に起きた、事件の真相の鍵になるとは思わないか? トリガーくんとしては、そこら辺、いかがかな」
「……あの手紙。結局、あの手紙は、なんだったんだ」
「……ふーん。反らすね。あの手紙の要求なら、もう済んでるじゃないか」
「でも、お姉さん」
あ、とぼくが漏らした声に、まつりは、ははははと乾いた笑い声を立てた。
「……どこからが、嘘だと思う?」
□
もし、手紙の内容が、過去のものだったとしたら、現在においては、嘘でもなんでもないということになる。
役に立たない紙切れ、それだけ。どうして、それにすぐ思い至らなかったんだろう。そりゃあ、ここに日没になっても迎えも来ないわけだった。
小さな彼女は、それを、どこかで見つけたのかもしれないし、送られてきたのかもしれない。
……いや、でも、そんなことをする必要性がよくわからない。それに人に頼んでまで、そんなことをするんだろうか?
まつりは、《彼女》はメッセージを残していなくなった、とも言っていた。連れ去られた彼女は、その後、どこに行ったんだろう。
メッセージを残していなくなって……そういえばメッセージって、なんのことなのか、聞いてないな。
まつりと会う約束をしていて、連れ去られて、それさえも忘れ去られた彼女は……?
いや、しかし、そのときに、残してあったメッセージに気付いたということは、メッセージについてだけは、まつりは覚えているということだが。
部屋に居座るのもなんだかつまらなくて、ぼくは廊下に出ることにした。しかし、突然、変わった向きのクレーンゲームみたいに、背中をつままれて、それをやめた。ドアから手を離して向き直る。
「なんだよ」
「待ちなよーん。ちょっと待つだけで、面白いことになるからさ」
なんのことだ、とは聞かなかった。面白いこと、と言われるときは、大抵が、面白くない。
突然、何か、弾け跳んだような、乾いた音がした。まつりの目線が、ドアの外に注がれて、ぼくもそちらを見た。僅かにドアが揺れた。数回、乾いた音が続いた。誰かが呻くのを聞いた。女性だろうか?
「ちっなみにー、運動会じゃ、ないよ」
「面白くねぇよ」
はははは、とまつりは笑っていた。その笑顔は、やっぱり違和感があった。
だけど、それがどうして、そう思えるのかは、わからなかった。
僅かに、煙のにおいがした。焦げた何かのにおいがした。頭に、ズンと重く痺れるようなにおいがした。
それからはもう、あの不快な音は、しなかった。
「終わったか」
壁に張り付いたまま聞いてみると、まつりはベッドで跳び跳ねながら、笑っていた。
「……ふふふふ、ふふふふ、はははは! まだ、終わるわけ、ないだろ? あはははは、はははは」
「何、どういうことだよ」
「ちょっと、時間を稼ぎ過ぎちゃったね。もう、来ないのかと思っちゃった」
「――お前、何を呼んだんだ」
「招待状は出したけど、あくまで任意だよ」
<font size="4">14.本当みたいな嘘は、信じやすい</font>
「う、嘘だ、お姉ちゃんが……お姉ちゃんが、お母さん……」
──聞くつもりはなかったが、ある日私は、母様の話を聞いてしまった。
それは、よく、私の耳に届いた。電話というのはなかなか、声を張り上げていることにも、意識が回らないものなのかもしれないと、最初は思った。
『なんとかならない? あの子、私の手に余るのよね……もともと、実の子じゃないし、その、なんていうか。いい子なんだけどさ……』
『えー? ああ、ときどき、家に来てた、あの双子んとこの片方だよ。そんなにも、娘が可愛いんだねぇ……』
まだ記憶も、ほとんどない、幼い頃私が住んでいたのは、別の場所だった。そこを実質上買収したのが、あの一家。
何のつもりだったのか、使用人として母は雇われ、娘は、ある家に引き取られたらしい。
筒抜けになる会話に、あまりのショックで、我を忘れかけた私は、ガタガタ震えた。
私を冷静にしてくれたのは、それからまた数日後、部屋に閉じ籠ってひそかに泣いていたとき、開けっ放しの窓から届いた一通の手紙だった。
それには、日付と、電話番号の書かれたメモも、同封されていた。手紙の内容を見て、私は何かを悟った。
携帯電話を握りしめ、記してある電話番号にかける。すでに、迷いはなかった。
□
佳ノ宮まつりはベッドに寝転んで、話を始めた。退屈なのかもしれなかった。
「数年前――上の人が、何か、彼女の身寄りとなっていた場所を買収したらしい。それからすぐ、あの屋敷に仕えたいという《彼女》の願いが快諾された」
そのとき、双子の片方には娘がいた。それがヒビキちゃんだった。彼女は、ヒビキちゃんに時間をかけることが出来なくなった。
まだ幼かった彼女を、別の家に預けたのだそうだ。
「メイドさんになりながらも、情報をいろんな場所にばらまいてたコウカを始末する理由は、まあ――なんでも良かったんだろう。まさか、家が自ら手をかけるわけにはいかないし……もし、都合が良く《外部からの侵入者》でもやってきて、誘拐でも起こったら、足取りが掴めません、終了! って考えたんだろうね」
「あれ? でも、それ、おかしくないか。エイカさんなんだろ、母親は。コウカさんは、ここにいる」
「念のために、入れかわってたのさ。ここにいるのはコウカって名前のエイカで、居なくなったままなのは、エイカって名前の、コウカだ」
「わけがわからない……何のため? それに、やってたのは一人だろ? どうして、コウカさんも、エイカさんも、両方が、連れ去られたみたいなこと……片方を脅しにすれば、充分じゃないのか」
「……んー、片方は、上の指示で誘拐されて、もう片方は、こちらでこっそり保護されたんだよ。まあそれも、形は誘拐そのものだったみたいだけど」
上の考えが気にくわないやつは、結構いたみたいだからな。と、付け加えた後、なんにしろ、目で見たことじゃないから、推測は、断定的に語れない。と。
まつりは楽しくなさそうに、ぼくの質問に答えてくれた。一番ぼくを覚えていた時期だったなら、考えられないほど機嫌が良い。
一時期は、うっかり楽しくない話題を振ろうものならぼくはけちょんけちょんにされていた。しかし今は、自分からそれを振るくらいだ。それが何を意味するか、ぼくは気付かないわけじゃない。でも、今は追及しない。