丸いサイコロ
「──さて、外に出ますか」
話に飽きた、といったしぐさで、ベッドから降りたまつりは言った。楽しそうに。嬉しそうに。ぼくはドアをゆっくり開けた。
廊下は、前にも増して静まっているように感じた。
とりあえず、目の前には何もない。恐る恐る、部屋から出る。
なぜだか、足が震えた。ゆっくり、音がしたと思う方へ歩く。ぼくは、どこに向かっているのだろう、と思ったが、どうやら、コウカさんの部屋に向かっている。コウカさんは、大丈夫だろうか。
「──ちなみに、音がしたのは、あっちだよ」
「えっ」
……反対方向だった。
上着の背中をつままれる。つまむのが好きなのか?
にしてもおかしいなあ。確かに、こっちから聞こえたと思ったんだけど。
まつりは無表情で、あっち、と倉庫がある側を指差した。ちなみにそちら側にも、階段がある。
「……早く言ってくれたら嬉しい」
「なにしてるんだろう、って、考えてしまったんだよ」
「……なあ、まつり」
「ん?」
「昨晩食べようと思って冷蔵庫に入れてた『シフォンケーキ』が『たまご豆腐』に変わってた話について、どう思う?」
「さあ。たまご豆腐を、シフォンケーキだと思っていたんじゃないかなあ? あなたが見ているものが、真実とは限らない、みたいな?」
「いーや、違う。ぼくの認識じゃ、間違いなく、その前の晩まであれはシフォンケーキだったんだ。まあ、だから今回は生クリームを軽く塗って、チェリーを乗せた段階で、早々気が付いたんだよ。まったく……危ない危ない。あやうく、認識を改めずにそのまま食べてしまうところだった。さすがに、ぼくの味覚までは誤魔化せないからね。ハッハッハ! 悪魔の手には乗らないぞ!」
得意気に言うぼくに、まつりは不思議そうに首を傾げた。
「見た目だけならプリンアラモードっぽいかも」
それからすぐに差し掛かった倉庫のそばに、誰か、知らない女の人が立っていたので、びっくりした。
髪はボブに近く、短めだ。キラキラしたピンクのベルトが目立つ短いジーンズで、黒い木綿系の半袖シャツを纏った、スタイルの良い人だった。
少しコウカさん(でいいのかわからなくなってきたぞ)に似ている気がする。
「あ。久しぶりだね」
まつりは、無表情でそう言って、彼女に挨拶した。彼女の方は、けらけら大笑いしだした。妙に明るい。
「わあー、久しぶりってやつやつー!? まつりん元気にしとった?」
やつやつってなんだ、と思ったが、聞かないことにする。
「んー、なんかよくわかんないけど、元気元気」
まつりは、すごく適当に答えた。彼女は気にしていないようで、笑い続けている。疲れないのかなあ。ぼくも一度くらい、盛大に笑えたらいいのだが。
「もー、まつりんー! 相変わらず冷たいなあ? もーっとほっかほかで行こーやあ! な?」
「ふーん。来たんだね」
「来たんは来たけどさあ!まつりん、もっとおはようの挨拶とかないん?」
どちらかといえば、おやすみの時間かなと、個人的には思った。まつりはやはり聞いていないのか聞き流しているのか、一方的に感想を述べる。
もしかしたらあのテンションに合わせて上げていけるだけの気力がないのかもしれない。
「ちょっと、来ないかとも思ってたのに、よく逃げれたな」
「……うっふふっふ! なんかね、流されたっていう情報のなかで、一番でかかったやつの、それ自体の隠蔽やら撹乱かなんか、外で手伝ってくれた人がおったみたいで……んー、なんだったかいなあ。それの、その人の、なんかやった際の条件で、解放してくれたっていうかんじなんかな……一番それに困っとったみたいだから。いやー、早いもんで、二年? は経っててびっくりだわ」
「……なんにしろ、はいじゃあね! ってあいつらが逃がすわけがない。刺される前に、さっさと逃げて来たんだろ?」
「まあね」
くすくす、と彼女は笑った。ジーンズのポケットに、意味ありげに手を突っ込む。少し、カチャカチャ音がした。
違和感なく、当然という感じで、彼女はまつりの後について歩いてくる。
三人で倉庫をすぎて、廊下を進むと、掃除用具入れや、使ってない部屋が見えてきた。
「……あ、ちょっと、二人で先いってて」
その辺りになって、まつりは突然、そんなことを言って、一人逆に進み始めた。
にこにこしていて、こいつそういえば、こんなに、こんなに……にこにこ笑うことは、なかったぞ、と気が付く。
「あれ……」
考えれば考えるほど、おかしいと思えてきた。
楽しそうな顔はしていても、あからさまに笑うなんて、なかったはずなのだ。
たまに、嬉しいことがあった瞬間だけならともかく、淡泊というか、感情の切り替えが早く、始終にこにこしないやつだった。
今までは。
まるで、そう表現することを、自らに課しているみたいに、今日のまつりは、不自然だ。
ぼくは、なんだか、不安になった。まつりが、このままいなくなってしまうような気がして、少し怖かった。
「どこに、行くんだよ……」
思わず、聞いていた。
普段のぼくは、こんなこと、聞いたりしなかったのに。
「やっだなあー、プライベートなことは、聞かないでよっ!」
語尾に、星でも付きそうな可愛らしさでおどけられて、ちょっと黙ってしまった。
そんなこんなで。
二人きりになってしまったと思ったとたんに、彼女は、それを切り出す合図のように口を開いた。
「さて……」
「はい」
ぼくに向けられたものなのか、判断し難かったが、思わず返事してしまう。
果たして彼女は何を考えているのだろうか。
「きみは……ああ、そう、きみは、あの子か。きみは、変わっとらんのね」
「そう、なんですか。……お久しぶりです。あなたは、昔、お会いしたときは、銀縁の眼鏡だった気がしますが」
変な顔をされた。
そして、すぐに、表情を戻して、答えてくれる。
「あー、あれはね、やめたんよ……なんかね、イメチェン?」
「あ……! そういえば、言葉遣いも、変わりましたね」
なんだか、変な感じだ。
懐かしいのに、違うみたいな、気味が悪い感じ。内心では、いつ《本題》を切り出されるのかと、ぼくは焦っていた。
焦っていたからこそ、話を引き延ばしたくて、精一杯笑う。廊下も、出来るだけゆっくり歩くことにした。
何か話題がないかと考えていると、ふと、頭に閃くものがあった。
「ん、なに? なんか思い出したん」
顔に出ていたのか、彼女が聞いてくる。
「いや。そ、そういえば、……歌うチョコレートケーキ、ってあの映画だったんですね?」
彼女は数秒固まった。
その後、怪訝な顔で聞いた。
「ナニ、ソレ?」
「ほら、前に、好きな小説の一節だって、おっしゃってたじゃないですか?」
……やってしまった。
会話の順序を間違えてしまった。脈絡をすっ飛ばしたどころじゃない。
自分が痛々しいのは自覚しているつもりだが、改めて沈みたい。
「え、えーっと、それで、もうすぐ映画化されるんだ、って話を、してくれましたよね? それ、この前観てきたんですけど」
あいつは、これも計算していたのかな。まさかな。いくらなんでも。
「……そう、なん? それ、いつの話」
「ぼくが小学生のときだったかな……えーっと、確か、好きなことは何、って話になったりして――」
「覚えて、ないな……」
「えーと、春で、5月になるくらいだったと……あ、いや、えっと、やっぱりいいです、すみません変なこと言って!」
たぶん、ぼくの被害妄想だが、心なしか、引かれたような気がした。ちょっと、落ち込みそうだ。
気が付けば、えーと、を言い訳みたいに使っている。相手が覚えてもいないことを、確かにこうだった!
と、断言するのは、ちょっとどうなのかと思ってのことだった。
確かめようがないのに断言したところで、ほとんど無意味だ。もちろん、ごまかすように考えるふりをしたって、無意味だが……要は気持ちの問題である。
胸を張っては言えないが、ぼくだってもちろん、視界に映る範囲の、覚えていることしか、覚えてない。
間違えたり、自分の認識だけでは、あまり確実や正確じゃないこともあるし、正直、余計なハードル(?)を上げる気はなかった。
そういえば昔、門限関係の、ちょっとした事情で、母に、その日より昨日か、少し前のことを聞かれ、『この時間にはこれをしていた』などと言った時間が、実際の時間と違っていたことがある。
『違うじゃないか、嘘をつくな!』
と、当時はいた父に指摘され、こっぴどい怒られ方をしたものだったが、家の玄関に置いてあった小さめの置き時計(やや進み気味だった)の時間を覚えていただけであり、ぼくがテレビなどはほとんど見ないので、その日(休日)も特にいちいち確かめていなかった、というのが、ぼくの中での真相だ。時計自体も、気になるときしか見ない。
昔は有り余るくらい、変なところで正直だったぼくは、あとで、そのことを言ってみたが『時間が違っている時計を使った、見苦しい言い訳だ! だいたい、他の時計を見ろ!』とかなんとかで、全く聞いてはもらえなかった。
信じられないかもしれないが、つまり、間違った時計を、しばらくの間、気がつかずに、何も疑わず、確実なものである、と信頼していたのである。最近気付いたが、どうも、慣れている場所か、最初に視界に入れた時計(最初に慣れる)でしか時間を確認しない傾向があるみたいだ。
しかもあまり不便もなかったので、(むしろ、遅刻が減っていた)しばらく直さないままだった。
なぜ時間が進んでいたかについては、兄がそれより前に、目覚まし機能を使ったとき、戻していなかったらしいが。
もしこのときが、そういうミステリーだったら、たぶんぼくは、最初にあっさり騙され、追い込まれて死ぬ役だったろう。
うっかり、また話をそらしてしまったが、なによりまだ心配はあって、ある程度の《執着的な好意があるからこそ、ここまで覚えている、みたいに思われる》んじゃないだろうか、ということだ。
(むしろもう、おそいのかもしれない)
もしかして将来、下手に誰かについて詳しくしゃべったらストーカーに疑われる可能性がある……?
説明すればするほど、何やってるんだろう、と悲しくなりそうなので、切り替えることにした。
と、いうところで――
「……なんだ、これ」
ぼくたちの足は、止まった。
倉庫から抜けて、使われない部屋を少し行ったところで《それ》を見たからだ。何かが乱射されたらしい現場は、いつか出合うような気はしていたのだが、でも、だからこそ、驚くことも出来なかった。
「……ケイガ、いや、ヒビキ、ちゃん……?」
いろいろな、なにかよくわからないが砕けた物に紛れて、小さな体躯が、ぐったりと転がっていた。赤い色に染まって、倒れている。
「どうして……」
彼女は、うっすら、笑った。
わからない。どうして、笑うのだろう?
しかし、なんとかまだ、息はあるらしい。病院に電話をかけようと思ったが、ぼくは、相変わらず、携帯電話を携帯していなかった。
しかし、ここには、公衆電話があったはずだ。上着の中に、コインケースがあったのを思いだして、確認した。ちゃんと、中身も入っている。藍色の、和風なもので、修学旅行のお土産だったものだ。
深く考えずに外に出る。
星が輝いていて、そういえば、今何時だろう、と思った。
気配を感じると思ったら、黒いシャツの彼女が後ろから付いてきていた。
そういえば、そうだった。
しかし、話をする暇も惜しい。背を向けて、10円を入れ、番号を迷いなく押した。
このボックスは、ちなみになぜか、薄いピンクだ。