ノート
朝まで眠れなくて、ぼーっとしたまま制服を着た。

こんなときに限って体温は低いだけで、熱はなかったから登校しないとならない。
体温が低いとそれはそれで辛いんだが、それで欠席したら半月くらい休みそうだ。
 木瀬野さんからもらったシーグラスとかを小さなケースに詰めて鞄のなかにしまう。

朝飯、どうしようか。
考えながらなっちゃんに久々に電話をかけた。
「はい……」

「なっちゃん?」

「あ。秋弥か」

「迎えに来てー」

「用件が唐突だな!」

 なっちゃんは、なんか機嫌が良さそうだった。俺とは対照的に。心配をかけたことについて語らなくて済むならこんなにいい相手はいないのに。部屋の、あの本棚からしても知ってもおかしくないと思うから、その真実を確かめてしまったとき、俺は、もうこいつには付き合えない気がする。
「昨日は、悪かったな」


会うなりなっちゃんが謝ったから、俺はどうしていいかわからなかった。空はいい天気だった。

「話したくないようなことなんだろうと、俺なりに、解釈した。聞き出せないことだってあるのにな。お前のことならなんでも知りたいなんて、

思い上がってたよ」


なんとなくそのときの、残念そうな表情を見て俺は苛立って、わかって欲しいのに、まだわかってないだろという苛立ちしか沸かなかった。

「この前できなかったことしようぜ」

頭にあるのは腹が立つというそれだけ。
腕を引いて、少し死角になる路地までなっちゃんを引き込む。

「おい、学校は」

驚いたような、楽しげな、のんきな声。
壁に強引に押し付けて自分の口でなっちゃんの言葉を塞いだ。
黙れ。黙れ。
俺は別にそんなわかったようなことなにも聞きたくないよ。

「ん……っう……」

なっちゃんがうめきながらも俺の背中に手を回した。なんか苦しそうだ。そのまま角度を変えながら執拗に啄んでやる。

「秋っ」

合間で、掠れた声が名前を読んでくるのを無視して、意識が遠退くまで口を塞ぐ。

コイツ、何もしゃべらなきゃいいのに。
 想定外だったのはなっちゃんが少なからず、その身体に興奮を露にしていたこと。
ふと口を離したときに見えてしまった。

むかつく……

何にかもわからない、それに余計に腹が立つ。
なんで、喜んでんだ。
奥まで突っ込んでおけば黙るんじゃないかと舌を捩じ込む。なっちゃんは涙目になりながらもやはり、感じていて、蒸気した頬で、もっと……と囁いた。

「なっちゃんが、俺を煽るから悪いんだ」
「なに、それ……」

なっちゃんは、酸素がまわってなさそうな声で聞き返してきた。

「俺にも、わかんね」

イライラしてる。

苛立ち、激しい虚無感。俺は物じゃないし素材でもない。
どこにでもいる人間の一人なんだ。
今のこいつの方がよっぽど、物みたいにボンヤリしてやがるじゃないか。

そんな、優越感と背徳感、それに安心感に浸る。俺は人間で、別に身も心も綺麗なんかじゃなくていいからただ、周りに馴染みたい。

寂しい、というのはこういうことかもしれない。
服の下に手を入れて、ちいさな首を、右左に捏ね回す。

「やぁっ……だめ、それ」
途端になっちゃんが女の人みたいな声を出す。
遠くでカラスがなく声がしていた。
間抜けだなと思った。
いろんなことがバカみたい。
「は、っ、はぁ」

泣きそうななっちゃんの口を俺で塞ぎながら、優しく前を引っ掻いた。



 一度家に帰宅してから彼に新品の肌着を着させる。
俺を嫌いになって近寄らないようになって欲しいから、嫌われる言葉を必死に探していた。

「単なるスキンシップだろ? 早すぎない」

冷たく言ったけど、なっちゃんははにかんだ。

「ごめん、興奮した……
秋弥、あんがいSっ気あるな!」

なんでそこ、なっちゃんが謝るの。

「なっちゃんはわりとMっ気あるよな」
「俺たち、恋人って思って、いいんだよな」

 なっちゃんは、俺が口を塞ぎたくなることよりもそれを好意的に捉えている。
なんだか脱力した気分になった。
まぁ、実際、見たくもない相手ならあんな行為で黙らせたりしないはずだ。

 するりっと手を伸ばして、何かを心で詫びる代わりになっちゃんに甘えて、フォローしておく。
「いいよ。すげえ可愛かった。またしても、いい?」

別に嘘ではない。

なっちゃんは顔を赤くして俯く。

「これから学校あんのに……朝からあんな刺激されたら、思い出すだろ」

あ。そうか。
それで我に返る。

「まだ学校あったんだった、悪い」

 急いで外に出て、俺らはまた通学路に向かう。
「思い出すなら休みの時間にでも俺を呼べばいい。それとも、もうダメってくらいまでしとくか」

なっちゃんが恥ずかしそうな顔のまま、聞き取れないくらい小さく呟く。
「俺が……秋弥を襲う予定だったのに」

は?
今なんて。
俺たちは、改めて通学路を歩いた。
歩きながら話す。


「秋弥を組み敷いて、鳴かせたい」

「……。おう」

返事に時間がかかった。
「ほら、俺、がさつで、可愛いとこないし」

「前髪がいつも隠しがちだけどつぶらな目とか、その細い腰とか、えろい声とか。同性でも抱きたくなるって密かにみんな話してる」

複雑な気分だな。
つーかそんな声出してねえ!!

悩みながら俺は言う。

「あー……じゃあ、

なっちゃんが
『男前! 抱いて!』ってもし俺に思わせられたら、好きなようにしていいよ。恋人だからな」

でも、さっきの、なっちゃんの声が脳内で再生される。結構、いけるもんだな。

「何にそう感じるんだろう」
なっちゃんが、真面目に悩み始めた。
え……まじで。

「なっちゃんに抱かれる前に、俺が一度最後までしてしまおうかなぁ。
あんな声出して、説得力がない」

「んなこと……」


しばらくなっちゃんが恥ずかしそうにしてるうちに、学校に着いた。
時間は、比較的穏やかに流れていた。
もしもなっちゃんが心配そうな顔をしたら適当に口を塞いで黙らせる予定だけれど、もしそれでもだめなときを考えたら、一日憂鬱で、あまり身が入らない。

放課後、少し遅く部活に行くと、みんなそれぞれの製作に取りかかっていた。

「おー、来たか秋弥」

先輩が声をかけてくれる。俺は持ってきた素材を机に置いた。

普段あまり出ない椎名って男も参加していた。彼は嫌そうにこちらを一瞥したあと、また隅の方で絵を描いている。
制服の上から黒いパーカーを着ている。

(黒服……か)

『やくざみたいだよね』
木瀬野さんの言葉が、関係ないはずなのにふと頭に過る。
 俺も自分のことをしよう、と適当な席に座りスケッチブックを開いた。
けど、だめだ。
ラフを描くどころじゃない……
 綴じてある紙を開いてめくって、そこに自分のことを書くという行為そのものが、やはり俺を苛むようだ。

席から立ち上がると、激しい動悸に見舞われてふらつきながらたちあがった。


「今日は帰ります」
部長に小さな声で告げる。走って、部室を出る。好きだったことが、なにひとつ、やりたいと感じない。
廊下にも、なにやらポスターが貼られていた。
なんのポスターかは知らない。
なるべくなにも見たくなくて、はやく帰りたい。
なっちゃんを心配させたら余計に面倒だと感じて腕を切るのは最近我慢している。

だけど、じゃあ、何に吐き出せばいい?
木瀬野さんにしかこんなの言いたくないし、ノートを新たに作る気にもならない。

河辺の呆れる私怨に、尚更に腹が立つ。
俺の人生を壊していくようなものを食べ、太るように生きていくのだろうか。
 なぜ、何もかもが少しずつずれてしまうのだろう。

「ねぇ、新作のさ……」

「あぁ、やばいよね!」

誰かが何かの話をして俺とすれ違っていく。
ちらっと横目で見たら二人が手にしている漫画のことのようだった。
背表紙に描かれた名前は木瀬野。

なんか、あの人みたいな名前だなとぼんやりと思う。

「ノートが、どうなっていくかだよね」

廊下で話す女子の一人が言い、もう一人も持論を述べ……


どくん、と心臓が音を立てる。
いやだ……いやだ。

「この話の――」

やめろ、やめてください。
耳を塞ぎたいのに、聞こうとしてしまう俺はバカなんだと思う。

「『君のために描いた』っていう君って、誰だろ?」
あの話をしない。
それが、一番俺のため。
「ねー、幸せだよね」

消えない。
消えなくなる思い出。
俺が、沢山、拡散される。
「ああああああああああああ!」

突然叫んだ俺に、二人はぎょっとして逃げていく。俺はわけがわからないまま笑った。

「ははっ、あははははっ!」
あぁ、腕を切りたいな。首を絞めてもいい。

 二人がいなくなってからその漫画の作者について携帯で調べたら、木瀬野さんの教えてくれたプロフィールに近かった。
 俺が日々を書いてるんじゃなく、あちこちに、違うやつに書かれてるんだという状況自体が、俺のノートの真逆のことをしてるその行為が、俺のためであるはずはない。
やめて、もう俺を理由になにかをするようなことを、しないでくれ。

もしかすると会話のひとつひとつが、全部ネタ集めだったんだろうか。
正しいことを確かめるのも嫌だ。
口に出すこと自体が嫌だ。

知っていたんだ……
知ってて、さらに
『俺がそいつだ』と、知ってしまったんだ。
木瀬野さんを信じたいのに、同時に悲しみと憎しみでいっぱいになる。

直接言えもしない言葉を、他所で語って、なんになるんだ?
今まで深く考えもしなかったけど、俺は、周りのやつのことを何もしらないんだなと、知らされる思いだった。

いや……他人に興味を持とうとしなかったのか。
鞄を抱えたまま逃げるように外に出て、誰を、何を信じていいかわからない上に、

誰にも告げることの出来ない感情と戦う。
心配をかけたくないとは言え、他の発散方法が思い付かない。
どうせ、怪我したっていえばバレない。

誰も見てないだろう校舎裏の場所を探してから、ポケットから出した鋏でそっと手首に近いとこを切った。

まっすぐな切り込みにしないのは、故意じゃないと思わせたいから。
これは怪我なんだ。
心の。

「あ、秋弥」

後ろから声がして振り向くと、なっちゃんが居た。運が悪い。
慌てて涙をぬぐい、手をブレザーに引っ込めてごまかす。

「な、に」

「触って?」

甘えたように抱きついてきたなっちゃんの額に軽く口付ける。

「下も?」
囁くと、周りをきょろきょろ気にしてからなっちゃんが照れたように言った。

「下も」

 少し屈んで、ワイシャツの上から乳首に噛みつく。
「あぁ、ん……」という声とともに腰が揺れる。

「弱いんだ、ここ」

「うん。あっ、きもちい」
俺の頭を抱き抱えるみたいになっちゃんがしがみつく。やさしく舐めていると彼の肩がびくっと震えた。

「やぁんっ」

「女の人みたいな声」

「秋弥っ、はぁ、はぁっ……」
あぁ、やばい、結構そそる。

この状態で誰かが、俺を殺したら、世界は何か変わるのかななんて頭の隅では考えている。

なぁ、なっちゃん。

なっちゃんは、俺が物に見える?
歩く『ノート』に見える?
俺の心の中は、誰にも描けない。
そうじゃなかったら、俺が俺である必要はない。 血が足りないのか、だんだん頭がぼーっとしてきていた。

なんだか袖が濡れてると気づく。少しだけ、生ぬるい感覚がある。

「あ……」

なっちゃんの目がそっちに向く。
俺の赤く染まった袖。

「ははっ。怪我、してたの忘れてた」

すこし、落ち着いてから思い直す。
それでも河辺と木瀬野さんは違うじゃないか。
あんな風に私怨と嫉妬を俺ににじませたりしなかった。

そう、だよな?

俺が好きな、あのままの彼かもしれないし。
そもそも別人ってのも考えられるワケで……

「秋弥?」

なっちゃんが、ばっ、と手を引っ込めた俺を不思議そうに見た。
まだ興奮してるのがわかる。
けどそれ以上に俺を心配していて、はだけた服を着直して近づいてきた。
「なにかあったんだな」

あったのか?
とは、もう聞かなかった。
とりあえず中を確かめてから考えようと思って、それから、なっちゃんに抱きついた。

「どうした?」

「なんでも、ないよ」

背中をさすられて、心地よくて目を閉じる。
なっちゃん。
俺は、誰なんだろう。
この気持ちはなんなのだろう。
どうしたら、いい?
とりとめない、答えがないことを、沢山考える。
「今日は甘えただな」

「なっちゃんは変態だね」
足を踏まれた。
何も考えたくないから強引に口を塞いでやった。

なっちゃんがゲテモノでも食べたのか俺の味覚が固まったのか変な味だった。

「んっ……ふ、ぁ」

可愛い声がしてる。
俺はなぜか、喉の奥があつくて、目がつんとしていて胸が痛くて、苦しい。
からい味の水が、頬から伝う。

気がつけば泣いていた。嗚咽は隠し通せるはずもなくてなっちゃんにもすぐ伝わる。
たった零れた感情の一部だけだけど。


それだけでもなんだか悔しくて、それ以上に苦しくて……計ってないけれど、1時間近くずっと泣き続けていた気がする。

 なっちゃんはそんな俺をぎゅっと抱き締めて、頬や顔中に何度もキスしてくれた。

「泣いてるのも可愛い」

なんて言っていた。

俺は、今、未練を無くすために生きてる。
だったら悲しんだりしなくてもいいはずだ。
なんでこんな気持ちになるんだ。
いつもみたいに笑えなくなった自分は、不快だった。

 家に帰ってからは、ろくに着替えずに疲れた体を布団に投げ出して眠る。
もう泣きたくないというくらい泣いたから目が重くて、鼻もつんとして声も少し掠れ気味。可愛い、とは思わんが。微睡むのもわずかで、布団に横になるうちにすぐ眠った。



 寝てたはずなのに俺は図書館で、木瀬野さんに会っていた。
いつも座る席に先に居た。
俺が近くに行き思ったことを話すと、態度が穏やかなまま一変した。

「なんだ、知ってたんだね。
あーあ。利用価値が、無くなっちゃった」

ドクン、と心臓が跳ねる。

「秋弥くんと、カンベってのネタが別人なら良かったのに。一緒だなんてね。どちらも失うとか、困るなぁ」


だけど、だけど、あんなにいつも、優しいのに、信じられない。


「別人だと思ってた。
なんの変鉄もない、その辺にいる学生だと思ったから、優しくしたんだ。 このこと知ってたんなら関わったりしない」

 遠い存在になったような、そんな声が反響する。彼の顔がぼやけて、よく見えない。




ごめんなさい。

何の価値もない学生じゃなくて、だから、木瀬野さんの優しさも無駄になって……

 言葉だけが浮かんできて目が覚める。


あきらかな夢なのに、なんかリアルだな。

時計を見たら朝の四時だから、まだ学校に間に合うし二度寝して、

朝6時に電話をかけた。木瀬野さんから、心配されないように。


思えば恐れているのは、それだけだ。

誰かから心配されないこと。
何があったかと、聞き出そうとされないこと。
助けたいだなんて言われても、話してしまっただけで俺は苦しむ。

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