ノート
次の日はいい天気だったので、普通に学校に出掛けた。
不思議と、昨日より気分はよかったからか、教室に入ってもにこにこしていられた。

「あははははは! っはは、ははははは!」

「おはよう」

席に着いていたら横から、なっちゃんが話しかけてきた。

「あははっ、あは、あはははははは!」

俺は、おはようと返した。
そういえば、この前俺に頼みたかったのってなんだっけ。
今なら暇だからいいよ?
「あははははは!」

「なにか、愉快なことでもあったのか?」

なっちゃんは、怪訝そうな顔を浮かべた。
え、なんでそんな顔するんだよ?

「せっかく話を聞くっていうのに、嬉しくないのか」
「話? えっと、まって、お前が何の話をしているんだか、俺わからないんだけど」

「あはははははっ! あははは!」

またまた、そんな、嘘ばっかり。
「大体、なんで、そんなに傷だらけなんだよ?」

なっちゃんが俺の腕を掴んだが不快だったので振りほどく。
別にこんなのたいしたことがないじゃないか。
心配しすぎだ。

「なぁ、この前から、お前やっぱりおかしいぞ」

「俺は、笑えるよ。笑って欲しいでしょ。笑えるよ、元気なんだよ。ほら、ほら」

 なっちゃんのために、必死に笑う。
心配をかけないで済むくらいには俺は回復していた。今日なら遊びに行っても平気かもしれない。
「笑ってくれないかって感じの顔してたじゃない。あははっ! あはははっ」
何だかわからないけど、心のそこから、笑顔が湧き出るようだった。
こんなに明るい気持ちになったことは、かつてない。

なっちゃんと楽しく話をしていたら、知らない男子が教室に来た。
「おい、お前」

「なに」

振り向いたら耳元で低い声で囁かれる。

「そうやっていれば、同情してもらえると思うわけ。自分ばかり可愛いんだよ、お前は」

なっちゃんが、こいつなんて言ったんだ? という顔をした。

俺はわけがわからないからにこにこしていた。4限の体育の時間に、着替えが少し遅れてしまい、昇降口で靴をはきかえるのが一人だった。

チャイムがなるまでにさっさと外に出よう、と下駄箱に手を伸ばしたら、中に紙が入っていたのに気がつく。

まさかラブレターなわけはないけど、と、開いてみる。
ゴリラのイラストがあって、浮気野郎、クズ、 などが書いてあった。

ただ、振り回されるうちに、状況に姉が絡んできていてなんか気がついたら一人になっただけだというのに。

 そんなに熱心に誰かといた覚えはなかったからかなんだか心外だった。俺は結局自分のことでいっぱいだっただけだ。
浮気ってなんだよ。

意味がわからん。
ずっと独りでいたし、独りよがりだ。
どうせならそう言えばいい。

一人でその場に立ったまま、紙を握りしめていると後ろから声がした。
振り向くと、なっちゃんが居た。

「どうか、した?」

慌てて紙をかくして聞いてみる。
なっちゃんは、じとっとした目で俺を見ていた。
「腕掴んだとき、熱かった。たぶん熱があると思う」
「熱なきゃ、死んじゃう」

俺はジョークを言ったが、なっちゃんは笑いもせずに腕を引いて、さっきまで来た道を引き返していく。
「なっちゃん、待って」

慌てて追い付こうと早足になり、転びかける。
なっちゃんは振り向きざまに抱きとめてくれた。
「わっ!」

「平気か」

「ん、平気」

「……その紙、見えた」

まさか、あの浮気がどうとかが見られているのか?

なっちゃんは俺を抱き締めて、やっぱ熱あるぞお前、と言ったあとで驚くことを言った。

「河辺ってやつ、結構夜に遊んでるみたいだな?」

なっちゃんが、いじわるな顔でにやりと笑う。
嫌悪が現れていた。

「は?」

「塾帰りに見たやつがちらほら居るんだって密かな噂になってる。
、噴水のそばの公園、
ガラの悪いやつが集まるだろ?」

そうなのか。確かに、前に夜帰り遅くなったときに、怖そうな若者たちを見た気もする。ああいう風に、夜中に遊んでるのだろうか。

「お前も、もしかしてそうやって捨てられたんじゃないのか……確かにあいつ、顔は、悪いわけじゃないし」

ぶつぶつと言っているなっちゃん。俺ははじめて聞いたことと、手紙の内容をなっちゃんがどう結びつけているのか気になった。

「俺が浮気したわけじゃない。いろいろあって、どうしようもなかったうちに、別れたんだ」

「女か男か、お前に妬くようなやつを、河辺が作ってて、そいつがそうやって嫌がらせしてんじゃないか」

「うーん」

わからないけど、単なる噂だけで河辺が夜に遊んでいると決めるのはよくないだろうし。
手を引かれて保健室に行く。誰もいなくて二人きりだった。

「あぁ、先生、今、出てんのか」

養護教諭の在室かどうかを知らせるドアの札には外出、と書かれていた。
「ま、熱計るくらいいいだろ」

なっちゃんは判断して俺を椅子に座らせる。
なんだか、確かに頭がぼーっとしてきた……
動かずにいると、シャツのボタンが三つくらいはずされていた。

「……わ」

なっちゃんがどアップで、つまり目の前。
なんだこれ、恥ずかしい!!

熱が上がりそうだ。
ここまでされて、照れる場合じゃないか。

「体温計挟むから、腕あげて」

「自分でやります……」

なっちゃんは、無視して俺の腕をあげさせて、体温計を当てた。
なんだかドキドキする。
「なっちゃん」

「なに」

呼んだらすぐ返事があって、目の前に居て。
幸せだと、思った。
「なっちゃん」

俺はなっちゃんの両肩をぐっと掴んで顔を近づけようとした。
寂しかったのだと思う。熱が無かったらどうしていたのか、わからない。
「秋?」

なっちゃんが、戸惑ったような照れたような顔をしてて、それを見てなぜか急に我に返った。

「ごめ、ん……心配かけてごめん」

胸が痛くて、悲しくておかしくなりそう。
涙が止まらなくなる。
体温計を挟んで熱を計ったら37.5度だった。

「やっぱ熱いわ、お前。帰る? せめて担任にでも告げてくるけど」

なっちゃんが心配そうな顔をして、出ていく。俺は、その間に帰ることにした。なっちゃんにも顔を合わせられなかったから。






家に帰ると、母が叫んで暴れていた。

 それだけで、直感的に何があったかわかった俺は慌てて部屋に向かったら、姉とすれ違った。
「おかえりー」

「ただいま」

上の空な挨拶をして机へと駆け寄る間に姉は外に出掛けた。今日はラーメンを食べにいくみたいだ。
 駆け寄った机には、俺のノートが数ミリ移動した場所におかれていて、俺は気が動転しかけた。下からは、母の暴れる声がしている。


あのバカ姉!!

ただでさえバカ姉だった。あいつに見栄を張る母は、あいつがいないときにだけ感情を爆発させることがあって、だから知られないようにと努めて、家じゃ、なんにもないようにしてた。

俺のノートのことをぺらぺら話したんだ!

バカ!!
自分のことしか考えないやつだったけど、なんで勝手に見てたんだ。

それに、万が一、俺に同情して話したという可能性があったところで、
母の精神状態により負担をかけることの方が俺には許せない。

盗難に続いて、俺のノートが盗作みたいになったら、余計に過敏になるに決まってるだろ。バカか。

 末っ子だった俺は、いつも二人の先回りをする癖がついていた。
捨てられた俺にだけ、違う血が混じってるから。
なんとかやってこられたのは、裏で俺が気を遣っていたからでもあると思う。

 こんな風に、無駄な心配をかけないだとか。
行動パターンを覚えて些細なことに気を配って……あぁ、でも、今回は失敗だ。

ほぼ外に出掛けてる姉が、どんなタイミングで帰るか見通さなかった俺のせいなのかもしれない。
イライラしても仕方がないのに、余計なことすんなよと責めたくなる。
姉はどうせ、外に出ていくだけだ。お気楽なもんだ。
「泥棒! 泥棒なの! また盗まれたっていうの? あぁ、もう、いや!」

張り上げられる声が二階にまで、がんがん響いてくる。

「あんたのせい! あんたのせいでしょ、あんたが見てないのも悪いんでしょ! 秋弥! 秋弥も泥棒みたいなもんなのよ!」
姉のせいで、いや、俺のせいか。
頭がぼんやりしていなかったら俺だって叫んだかもしれないのに。

このまま家庭が崩壊したときは、姉のせいにしておこうかと思うくらいには、なんで話したんだという悲しみしかなかった。
俺には逃げ場がない。

「秋弥が悪いんだから、秋弥なんかいなかったらよかったのよ! あぁ!」

母は、数分騒ぐと落ち着いて静かになる。だからしばらく耐えるしかない。
俺は自分の心が苦しくて精一杯なのに、バカ姉に二回も、追い討ちをかけられた。
……いや、二回どころじゃないか。
 昔からそう、俺以外には、穏やかで優しい姉。だからあのノートも、俺の捌け口だったんだから。
昔もそういったことがあったとき母はずっと叫んでいた。
姉も、機嫌が悪くなると同じように叫んでいた。
怒ると止まらない二人が、ただ俺には不思議で仕方がなかったのだ。
昔からそう、怒り方が俺だけ遺伝してないと思ったし、友達にも言われていたっけ。
秋弥だけは穏やかだよね、と。


 熱があがりそうだから、どうにかベッドに入って横たわったら、涙が一筋流れた。

また、腕かどこかを切ってみようかな……
そんなことを考える。
でも身体が、熱くてだるくて、それさえ億劫だ。
木瀬野さんに、メールを送ってみた。

「元気ですか」

 木瀬野さんは何をしてるだろうか。なっちゃんにも紹介したいな。
でも、やめようかな。
二人が仲良くなったら寂しいし。
それに俺が、死にたいのは、木瀬野さんしかしらない。







(清白菜)

 放課後、秋弥を気にしつつも、仲の良い親戚の娘さんを小学校まで迎えにいった。
たまに、こうして頼まれる。
職員室を訪ねようと、昇降口で靴を脱いでいたら、壁に貼られた先生の似顔絵たちの中にある名前を見つけた。
渦緒縁……うずおゆかりと読むらしい。とわかったのは確か、当時秋弥が通っていた小学校での担任の名前だからだ。

俺は中学は同じだが小学校は違う。
引っ越してきた。
だからこそ興味があって昔の秋弥の話もいっぱい聞いたことがある。ありすぎる。

秋弥の話していた縁先生は、優しくて丁寧だが、控え目なところがあるせいで教室の生徒たちと打ち解けるのに苦労していた、とかで……

でもよく、休みがちな秋弥を心配して家庭訪問に来てくれたらしい。
あ、そういやあいつ、また寝込んでるし……
「あ、なっちゃん!」

しばらく立っていたら、元気な声がして、廊下の奥から女の子が走ってきた。

「紅、元気にしてたか?」
髪を二つ結びにした紅は、まんまるな顔をにっこりと笑顔いっぱいにして頷く。

「さっき、縁先生とね、お話してた」

「担任?」

「そうだよ! なんかね、大変なんだって。
ちょっと、病気の子がいて、それで倒れたから、今日も授業抜けて付き添いにいってた。
私も、その子が心配だから行きたいって言ったら紅ちゃんは優しいねって」
ずるいー、誉めなくていいから行きたい!
と紅は駄々を捏ねている。
たぶん、生徒にも教えられない状態なのだろう。なんだか小さい秋弥みたいだなぁと、紅の頭を撫でた。

末っ子や、周りに年上しかいない子というのは、褒める=ごまかされる、 というのに敏感なのだ。

だからこれで余計怒らせてしまって、
「もうっ、帰るよ! バーカ!」
とか、言い出した。

俺を引っ張りつつ帰る紅。犬の気持ちになりつつ、その後を苦笑しながらついていった。








チャイムの音がして、慌てて起き上がる。
玄関に向かって歩く足取りは重くて、ドアまでが遠い距離に感じた。

「……はい」

「あの、俺。スズシロ」

「なっちゃん」

あんなこと。
つまり保健室で二人きりだったことで脳裏がいっぱいになる。

「なんの、用だ」

ドアを閉めたまま言う。冷たい声を出したつもりだが、内心はかなりはしゃいでいたりして。

「荷物、おきっぱなしで帰るなよ……」

あぁ。
そんなの別にいいのに。思いながらも、なっちゃんが俺に会う口実にしてくれたことが嬉しい。

「開ける」

ドアを開けたら、いつもと変わらないなっちゃんが居た。
母さんが戸を閉めて、親戚に愚痴を電話している部屋の横を慎重に通りながら、2階にあがった。
「いいの?」
と聞かれたから、いいよと言った。俺も寂しいし。

「今日、縁センセと会った」
「マジで。変わってないだろうなぁ……」

「あぁ、たぶん」

今でも、俺みたいなやつを気にかけたりしているのかもしれない先生のことを、思い出してみる。正直あまり先生らしくなかった。
けど、それが親近感があった気がする。

 部屋には、今となると少し懐かしいようなゲームソフトが詰んであった。眠れないから、いろいろやった結果、
架空世界での簡単な作業なら、少し、気が紛れることをしって引っ張り出した。

「お前って、その手のゲーム嫌いじゃないのか?」

育成している丸いやつとは、また違う、冒険に出たり戦ったりする内容だから、なっちゃんが驚いていた。

「嫌いだった」
ガキのときの時代は、ちょうど携帯ゲーム機が普及しだした頃。
依存、ゲーム脳などが話題になって、教育委員やら学校やらで騒いだりもあった。

「姉が、依存症だったからな」

懐かしい気がするし、他人事な気もするし、だった、で済ませたい気がした。

「パチスロ行くのしか楽しみがないやつみたいな、ずっと、そればかりになって、母さんとかもキレるし、面倒ったら」

「いたわ、そういうの」

俺、はまるの怖くて買わなかったもん、となっちゃんが笑う。
今は携帯でもアプリが出来るし、ゲームは多くの誰かの生活の一部みたいなものになってるから怖い。

「バカ姉が暴力に憧れだしたのも、ゲームにはまり始めた頃からだった」

ゲームに罪はないと思ってはいる。
ただ、他に楽しみがなくて逃避したいやつがはまった結果なんだと思う。
「だから、俺をよく、敵に見立てて剣のおもちゃとかで叩いたりしてたよ。敵は倒すものだ、みたいな感じで。
家にいる俺の存在は、学校から帰宅したあとにやるゲームで見ているモンスターであって、学校にいない間は風景がゲーム画面の一部みたいな感じだったのかもな」

きっと、いじめられていた自分と勇者を重ね合わせたんだろうけど。

 そんなにまではまらせたものが、俺にも理解できたら少しはマシな気分になるだろうかと、姉がやらなくなったのとかやったり、少し買ってみたりしたら確かに結構楽しくて、暴力に走るほどじゃないにしても気は紛れた。
「だからなんかさ、思い出に、一番強く残ってんのかもなぁー」

 ひとつ、パッケージを手にとってひらりと振ってみる。今じゃほぼつかなくなった、紙の説明書も含めて、俺には大事なもののひとつだった。
悲しくて、でも憎めない思い出なんだ。

「アニメや漫画より、俺には、衝撃的なものだったわ」

なっちゃんは、俺がやりかけていた本体を手にして「お。これ知ってる」とはしゃいでいる。

その背中に、ぎゅっと引っ付く。

汗のにおいがして、萎えて離れた。

「あんまり、いいにおいじゃない」

「当たり前だろっ、ほら、嗅げ」
なっちゃんがわざわざからかってきて、俺は必死に顔を背けた。

「やだー、やだ変態!」

ハハハハ、と笑ったなっちゃんの口を手のひらで塞ぐ。

「夜中だぞ、静かにしろ」
「すみません」

そのあと二人で、ケーブルで繋いだ二つの本体でモンスターを戦わせた。

今じゃ、ほぼコードレスだけど、俺はこういうのも好きだったりする。
遮断されないように、距離が必然的に近い。
鼓動が伝わらないように画面を見続ける。

「なぁ、このケーブルさ」
ふと、なっちゃんが、鋭く聞いたから、思わず本体を落としそうになる。わかってる。何が言いたいか、わかっている。

もう向き合うことのない、束の間の時間のシンボル。
なっちゃんがやばい、お前熱あるんだったな、と言ったとき、俺は急に思い出した。
 あぁ……忘れてたというか、はしゃいじまったというかな。

「悪い、パジャマ着てないし普通にしてたし、つい」
俺はよほどじゃないと、顔色が変わらないらしいので無理もなかった。

「いや、ごめん、おとなしく寝てなくて」

30分くらい普通に遊んでた。

「気分はどう?」

なっちゃんが聞いてくる。細い首筋とか、シュッとした顔つきとかと、ギャップみたいに、少し潤んだ心配そうな目をしているから、少しどぎまぎしてしまうのだ。

「へーき」

「熱は?」

「おでこをさわってみたりしないんだ」

「なんか触れるだけでやばそうだから無理」

意味がわからねぇ。
そういえば、なっちゃんは俺が好きだったっけ。あまり、実感ないけど。
「その本体さ、俺と姉の」
唐突に場を持たせたくて言う。静かになるのがなんか怖くて。

「対戦するって言われたときだけは殴ったりもされなくて、普通に、どこにでもいるきょうだいみたいに勝負してた。
俺が負けてたけど」


学校とか忙しくなると、ずっとゲームし続けるわけにもいかない。
だから、束の間だった。あのケーブルは、辛うじて存在していた、コミュニケーション的な何かだったんだろう。

ノートが今より、薄かった頃の。
ノートのことを思い出したら、また、なんだか泣きそうになった。
何に対してなのか、悲しさと悔しさと怖さと、苛立ちで、どうにかなりそうだ。

布団に入ったあとで、なっちゃんの方に手を伸ばす。
「なっちゃん」

天井に吊るされた電灯が太陽みたいでなんだか、暖かい島にいるみたいだとわけのわからないことを思ったりしながら、伸ばした手を掴む感触に、嬉しくなる。

「なに?」

なっちゃんが、俺の手を握りながら横からささやいてくる。

「寂しいから、泊まってけよ」

「やだよ、なんか如何わしいことしてると誤解されるだろ、お母様がいるのに。しかもお前熱あるし」
「荷物、ありがと」

「おう……」

照れるなっちゃんは、やっぱり俺が好きなやつだ。

「心配させたいわけじゃないんだ。いろいろあって、自分でもどういえばいいんだか」

「お前、死のうとしてる?」
「え?」

唐突に聞かれて、思考が停止しそうになる。

「こんな、腕に傷つくって自分でやったとか言うし、
最近はずっとぼんやりしてっし、たまに窓の外に身を乗り出してる。
あれで、わからないと思ったか」

「……」

「何が辛いんだ? 俺には、できること」

無いよ、なんにもない。そう言いたかった。
突き放したかった。

身体がゆっくりと微睡み始めていた俺は、何も言わず、眠っていた。

次の日は快晴で、だけど俺はだるくて動けなかったし、なっちゃんは、帰っていた。

 やりたいこと1。駅前にある異国っぽい微妙に怪しげな雰囲気のレストランに入って、フツーに食事して帰る、は、残念ながら中止だった。店がなくなってたのだ。
 朝起きて、布団の中で改めてプランを練り直す俺に、木瀬野さんは、電話の向こうから心配そうな声をかけてくれていた。

「あ、あと女装してみたいです。前に似合うってなっちゃんに言われたんで」
写メってやろうかと得意気に話すと、通話口からは、楽しそうな、でも少しあきれてるような声がした。

「僕、きみのそういう謎のチャレンジ精神、好きだよ?」

「なんかバカにしてません」
「してないしてない」


あと、何がやりたいだろう。
考えたらいっぱいある。でも、数えたらあんまりない、そんな気がして、数字をつけるのはなんだか寂しい気分もあった。
「なっちゃんと、遠くに遊びに行くのもやってないな」

「それは、二人で考えてね」
「もちろんですよ。あ、木瀬野さんも行きましょう」
「僕は、うん……そう、だね」

なんだか歯切れが悪い返事が来た。
「他には」

聞かれて、とっさに言えなくて別のことを言った。前からこれも思ってた。
「あ。それから『秋弥くん』じゃ、読みにくいから、もっとフランクに呼んでもらえませんか」

「トッシー、とか、どう?」

「としやだけに? いいですね。ありがとうございます」

「昨日、なにか、あった?」

急に、変化球が来て俺は黙ってしまった。

「あの」

あったのか、なかったのか。
どう表していいのかわからない。


「秋弥くん?」

結局変えてない呼び方だったけど、まぁ、急に変わらないか。

「ひどいのは、カンベなのに、なんで俺がこんなことしてるんだろうって、たまに、わかんなくなるんです。

それで、喪失感とかが一気に来るのと一緒に、すごく悲しくて」

素直な気持ちを吐き出すと、木瀬野さんが小さく息をはいた。

「南の島とか、どう?」

「え?」

「一緒に行くの。みんなで」
きっとこことはちがう海が、よく見えそうだ。

「うみの、なかの……魚とか、興味はあります」
ふと昔、綺羅が沖縄のパイナップル園のお土産をくれたのを思い出した。『私今度こそ、人間関係をうまくやるから! だから、ハイ』という決意とともにくれた。

パイナップルと人間関係になにか関連があるのかは知らん。
『花言葉は完全無欠だから!』 といってたな……
「南の島にありますかね。パインって」

「中南米に2000種が分布してるらしいから」

急に、どうしたの?
と聞かれて、完全無欠になりたくてと言うと笑われた。

「今度こそ頑張ろう、ってとき、そういう柄を身に付けるおまじないです」

「完全無欠のパイナップル柄?」

ふふふ、と木瀬野さんが笑う。
通話を終えたあとで、昼間はこれからどうしようか考えながら、ぼんやりしていた。

物じゃない、と訴えた俺と物だといわれたことの二つの中で、でも俺は物になりたいなんて考えたりしてたけど……

 結局なっちゃんにもなにも聞いてないのは、俺自身がわからなくなっているからだ。

木瀬野さんと居れば『考えないで済む』から、
まだ生きてていいような気分になる。

でも、それが『正しい』のかはわからないし、怖かった。

癒されてはいけないのだ。揺らぐことがあったらいけない。
やっぱりやめるなんて言ったら協力してくれてる木瀬野さんへの裏切りだし、だからってノートのことを話して楽になりたいとは思わない。
たぶん、話せば余計に脳内に刻まれて辛くなると思う。

昔からそうだった。
話して楽になったのは、勘違いに関する話だけで、明らかな現実は、話せば話すほど積もっていって目に映る世界中に蓄積される。

俺だけに見えるその雪が積もった世界のなかで呼吸をして生きていく毎日なんて考えたら、苦しくて、胸が痛くて、とてもじゃないが、生きられない。
木瀬野さんは、見ず知らずの他人だから話せた。
 だけど、なっちゃんにまで、そんなことを言うくらいなら、俺は生きていけないのだ。
それなら何も知らないようにして笑ってて欲しい。
熱を計ろうか迷ってやめて、制服に着替えることにした。

俺はただ、何事もないように学校にいってどうでもいい日々を過ごして、流れていく季節を感じて、歳をとるなぁと感じてなっちゃんとふざけたりするんだ。
それだけでいい。

ノートがどうとか、俺が死ぬ前に南の島がどうとか、なっちゃんとそんな話をすれば、きっとより、理解してしまうことになる。

俺は、逃避してるだけだってこと。


だからこそ、いじめられようが、熱があろうが、今は無理矢理にでも登校している。
したいわけじゃないのに、他のことに頭を使いたくないから。

なっちゃんに、もう平気か? なんて聞かれたらきっと、俺はいつもみたいに笑うから。









15時。
今日の授業なら、もう職員会議により、終わってる時間だ。
 下駄箱を通り抜け、廊下に出るとなんだかわくわくした気持ちになって、なっちゃんにおはようと言ってもらえる気がして教室まで向かった。
そしていつもの席に、見知った背中を見かけたので、他の帰りかけのやつらをくぐりぬけた俺は、
思いきって「おはよ」と挨拶した。

もう平気なのか?と喜んでほしかったから。
振り向いたなっちゃんからは「帰れよ」と言われて頭がまっしろだった。

「え?」

「俺には言えないんだろう。何も」

ずきっ、と胸が痛んだ。
でも、言ったら俺が辛くなる。

「なんで、言わないんだ。あんなに熱出して、それにちゃんと食べてないんじゃないか。怪我だって……そんなに、俺は」

周りの目が、ちらちらと、俺となっちゃんに向いたから、俺は慌てて彼を連れ出していつもの屋上のそばまでひっぱってきてから、必死に言う。

「違う、俺がただ、知ってほしくないんだ、何も」

「なんで、だよ。そんなに教えたくないことって、せめて、どういう種類なのかくらい」

「それも、言いたくない」

帰った。
この世界に、支えになるものはない。
 俺がなっちゃんと居るにはなっちゃんにも何か言わないといけなくなることだけをただ、痛感した。
そしてそれは俺には出来ないこと。


 記憶が残りやすいほうだった俺は、人に、ある話をしたらずっと気に病んでしまう。

他人に自分の記憶や思い出が混ざり残留し続けていることが。


それを踏まえた会話をされることがただただ残酷でしかなかった。


自分が忘れようとしたって、何度でもあちこちで思い出すことになるだろう。


母さんにまでチクられて。どう相手が受け入れようが関係ない。

俺の記憶の断片にさえ、ならないでくれればよかった。
そうすれば俺は、あの雪を見ないで済む。

現実の世界に降り積もり続ける記憶の欠片を、世界と自分を繋ぎ続ける、うまく言えないが、そういう物質みたいなものを、増やさずにすんだから。

それはあちこちに散らばっている。

ある人が歩いてきたら、俺の意識は『こいつも俺の記憶になる欠片を持ってる』と、認識する。
『この場所も』『この色も』

 それがどんどん積み重なる。
個人の感情なんか、それに比べたらゴミみたいにたいしたことないもの。
母さんも、姉も、なっちゃんも、河辺も。
だからこそ、そこにいても俺から心を奪うだけの存在になった。
ただなにも知らず、なにも話さず、なにもせずに笑ってくれることだけが俺の救いだった。

なにもしないで欲しい、なにも、話そうとしないで欲しい。

そう、もっと必死に懇願すれば良かったかもしれない。

バカ姉が何か余計な話をしたことさえ些細なことにさえ見える。
あいつは、俺の背中を押す役目だっただけなんだ。もう決意が鈍らないように。
 わかっていても、それは突き刺さる真実で、いよいよ死ぬしかないんだ、と身に染みてわかる現実だ。
河辺がどう謝ったって、それさえもが些細な、どうでもいいものに思えてしまうかもしれない。
木瀬野さんは知らないでくれればいい。
見ず知らずの、全くの他人で、俺の口から話したからこそ知ってるんだから。

もし、そうじゃなかったら?

考えたら怖くなる。
勝手にどこか拡散されて先にしっていたんだったら?


いやだ、という思いで頭がいっぱいになる。
俺が知らないところで、勝手に知ってる木瀬野さんを考えたら、いてもいられない。

「あああああ、裏切り者、裏切るな、うらぎるなー!」

自分が何をしてるかわからないまま、部屋に戻って、部屋中のものを倒した。

「言ってない! 俺の口からいってないことを、なんで話すんだよ、裏切り者! 酷い! 信じてたのになんでそんなことするんだ、なんで聞いてるんだよ、知ってたらなんだよ!
知らないと信じてるから関わっていいと思ったのに、なんでそんなひどいことするんだ!」
 近くにあったハサミで、がり、がりっと腕を切る。切るというよりは、もう彫る感じに近かった。
少し落ち着きを戻した夜中、母さんが窓の外に置いてた花を部屋に戻しにいくと、黒い服の男がさっと走っていった。木瀬野さんの、白い服を対照的に思い出してしまう。

洗濯物を干しているその横を潜り抜けて、俺は次に河辺のことを考えた。
あんなに俺に執着してるのはなぜだろう。
好きだから?
いや、たぶんそんなもんじゃない。
だったら、単純過ぎる。

(……いつから?)


 遠くの方で、「サワさん!」とかいう声が聞こえた。奥さま方が会話しあっている。
 飛んでくる単語は、危ない感じの婦人雑誌みたいな内容で、それは俺には少しエグかったが、おばさんって、わりとこんなもんなんだろうか。
下世話というか、男、女! そして、やることはひとつ、みたいな、今となっては少し時代を感じてしまう。話し方がテレビで見たなんとかって芸能人に似ているななんてぼーっと思った。


 部屋に戻って、布団に入って目を閉じたってのに、驚くくらいに眠れない。
寝なきゃと思うほど身体は重いし、気分は悪いしイライラする。
たまに夜中に『ああああー!!』
という、幻聴が聞こえる。
これはヒステリーを起こしているときの姉のもので、なんというのか、俺なんか比じゃないくらいに、凄まじく、毎日暴れるときがあった。

しかし、そのときの記憶が無くて怒っている自覚さえないのだから、あとで聞いてもけろりとしていてお酒を飲んだわけじゃないのにアルコール依存した人みたいになる。
前に木瀬野さんに聞いてみたら、そういう病気もあるみたいだ。
けど、母さんに聞いたら違うわよ~ と言っていた。
そういうときは、
決まって「秋弥のせいだ」「秋弥が怒らせたんでしょ」と返されてしまう。

俺はあそこまで怒ることなんか滅多にないのに。

―――――――

これを読む頃、なっちゃんには少しでも理解してもらえているでしょうか。

俺は、生きようとしていたんだ。

だから、助けてって、書いたんだ。

――――――――――

発売されただろ?

違う人の名で。

その人の人生を、そいつが生きることなんかできないのに、あいつは、俺の悲鳴を笑ってそのまま使っちまったんだ。

――――――――――

捨てるなら、寄越せって。

あいつが捨ててきた時間が、俺は一番勿体ないと思うがな。
奪うから、振り返らないのか。

―――――――――

それで苦痛が倍になってしまって俺は生きるのが難しくなった。
どこにも居られないんだ。
―――――――――
繋がりを求めるなら、この地球から俺を出してからにしてくれ。
なんちゃって。

なっちゃん、ありがとう。
でも、なっちゃんが優しくない性格だったら、きっと隣に居るの楽だっただろうな。

――――――――――

俺は、なにもできない状態の愛はただの苦痛と変わらないと思う。
充分だ。要らないんだ。
たまに、苦しめるためにやってるんじゃないかとさえ思うよ。

そういうときは目に見えるものしか、信じられないからさ、言葉の些細な変化より、形。

これを読むとき死んでたら墓前に花を手向けるとかでもいい。
運悪く入院してたら、果物かなんか置いてくれ。
(強制じゃないぞ)

――――――――

言葉じゃないものでしか伝わらないことってあるんだよ。
だから、もし、俺がまだ、
迷ったときは、
それをください。

―――――――――









Side ??

 あいつにむかつくのは、ずっと前からだった。俺が出来なかったことを簡単にやってのけるから腹が立つ。

正直、俺が出来るようなことしか、周りは出来ちゃいけないと思うのだ。みんな平等、御揃い。

努力、というものを、思えばしたことがない。
 学校ですらも、少し無視されただけで、心が悲しくて行くことができなくなった。
勉強もわからない。
友達って、適当にしてりゃできるんじゃないの?
俺にはわからないことしかない。

せめて勉強だけでもと、塾に通った。
塾に通ってまで得た成績が、この前あいつ……秋弥の部屋にあったテストにさえ負けたことがあった。

俺のすべて。
なんにもない俺のすべてさえも、あいつは奪う。あいつと比べ、自分の方が勝っている間だけ、俺は自分を実感するのに、
 秋弥はまったくどうでもよさそうにそんな俺を否定する。

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