造花街・吉原の陰謀

4:地獄の入口

 吐息すら聞き漏らせない距離で、終夜はピタリと動きを止めた。

「いけると思ったんだけど、」

 そう呟いた終夜は、脱力して明依の額に自分の額を押し付けた。かなり鈍い音が響いたが、状況を飲み込めていない明依は痛みすら感じなかった。

「やっぱ無理、寝る」

 動かない明依をよそに、終夜は布団に横になって腕を目に乗せた。

「20分経ったら起こして」

 その声色には、全く覇気がない。終夜がそう告げてからしばらくして、気怠い身体を持ち上げて彼を見つめた。

「本当に、寝たの?」

 恐る恐る終夜にそう問いかけたが、正常な状態であれば絶対に聞かなかっただろう。まだ混乱している証拠だった。頭の中に薄霧がかかっている様な、意識が先行した世界にいるような、そんな感覚だった。

「うるさい。黙って気持ちでも、作っといたら」
「気持ち作るって、なに」
「さァね、あれ……俺、今、何て言ってた?」
「〝気持ちでも作っといたら〟」

 まともな会話すら出来ない終夜に明依がそう言うと、彼は呆れた様にフッと鼻で笑った。明依は咄嗟に身構えたが、終夜が身体を動かすことはなかった。

「うん、じゃあそれで。気持ち作っといて。起きたら再開で」

 そういって黙り込む終夜の様子をしばらく伺っていたが、まもなく深く呼吸をし始めた。終夜から視線を逸らさないまま身を乗りだして、枕元に放られた鍵の束を掴んだ。それと同時に、座敷の襖が開く音がした。
 明依がびくりと反応すると、部屋の入口に十六夜が立っていた。立ち上がろうとする明依を手で制した十六夜は、足音を殺して終夜のすぐそばに座るとしばらくそのまま終夜を見ていた。それから一つ頷くと、明依についてくるように促して立ち上がり、部屋を出た。
 音を立てない様に鍵を握りしめた明依が部屋を出ると、十六夜は座敷の入り口前からこちらを見ていた。明依が座敷の外に出た後で、十六夜の手によって完全に座敷の襖が閉められた。

「大丈夫。本当に眠っているわ」
「突然、眠いって言い出して、」
「私があの食事に睡眠薬を入れておいたの。大丈夫よ。私が以前処方されたものだから、変な薬じゃないわ」

 毒とまではいわなくても、本当に何かが入っていたなんて、終夜の勘の鋭さには驚くばかりだ。終夜の食事を毒見したのだから、先ほどから少しだけぼんやりしているのは気のせいではないらしい。
 知らなくてよかった。食事に睡眠薬が入っていることを知っていたら、明らかに動揺していただろう。十六夜がいなければいったい自分はどうしていたのか。その答えは、考えるだけで気分が悪くなりそうだ。

「黎明、大丈夫?」
「勿論です。後は主郭の中に入って、宵兄さんを助け出すだけです」

 終夜から奪った鍵の束を握りしめた明依を見て、十六夜は頷いた。

「しばらくは起きてこないと思うけど、念のために私が座敷の入り口を見張っておくわ。頼んだわね」
「はい。必ず宵兄さんを連れて戻ってきます」

 十六夜に背中を押されて、明依は主郭へと向かった。





 終夜の言う通りに主郭に沿って右側に歩いた。月の光もまともに入らない路地裏をしばらく歩いていると、苔の生えている整備されていない石段があった。足を滑らせない様に慎重に石段を上り切れば、古ぼけた潜り戸がある。
 しまっておいた鍵の束を取り出し、潜り戸についている鍵穴と合わせてみると、数個目が合致した。

「ここで何をしている」

 急に聞こえた声に明依はびくりと肩を浮かせた。見回りの格好をした男が、警戒心をあらわにしている。明依は息を一つ吐いた後、笑みを浮かべて見回りの男を見た。

「終夜さまに呼ばれて来んした」
「終夜さまは今、妓楼にいる。こんな場所に一体何の用だ」

 見回りはこんな所まできちんと見回っているのか。吉原で物騒な事件が表立って起きないのはこの見回りの人たちのおかげなのだろうなと、全く関係のない事を思う事が出来るのは、この状況を突破するこれ以上ない切り札を持っているからだ。

「もし見回りの方に会った時に信じてもらえなければ、これを見せる様にと」

 明依は雨の日の夜に持ってきてしまった終夜の長羽織と立入許可書を見回りの男へと見せた。これがなければ間違いなくこの計画は終わっていた。

「あ、ああ。そうか。わかった」
「この事はどうぞ御内密に。自分の管轄外の遊女と実は深い関係だったというのは、終夜さまにとっては具合が悪いお話でしょうから」

 先ほどとは打って変わって落ち着きのない見回りの男をよそに、明依は潜り戸の鍵を開けた。

「お勤めご苦労様です。まだ夜は長いですが、お互い頑張りましょうね」

 見回りの男に微笑んだ後、潜り戸を開いた。てっきり主郭の庭かどこかに出ると思っていたが、潜り戸の向こうには、地下に直接つながっているであろう階段があった。明依は動揺を後ろにいる男に気付かれない様に、戸惑う様子を隠して中へと足を進めて戸を閉めた。
 薄暗い階段で深く息を吐いた。緊張感から手が震えている。
 振り返れば、中からも入口の鍵をかける事が出来る様だ。鍵を持っているのが終夜だけなら、これで誰も中には入って来られない。万が一の為に鍵をかければ、とりあえず主郭の地下にもぐりこむことに成功したという実感が湧いてくる。気を抜くには早いが、緊張の糸が少しばかり解けた気がした。

 辺りは嫌という程静かだ。階段はずっと下まで続いている。明依は一歩一歩階段を下りて行った。コンクリートを打ったまま放置されている様子は、主郭の豪華絢爛を絵に描いた様な内装とは対極の位置にある。空気が冷たい。明依は握りしめていた立入許可書をしまい、持ってきた終夜の長羽織に袖を通した。
 しばらく階段を下りていると地下にたどり着いた。しかしその道は、迷路の様に入り組んでいる。間隔をあけて壁に打ち付けられた明かりが不気味に揺れていた。

 なるべく足音を立てない様に歩いていると、開いている開き戸があった。そこからは光が漏れている。
 恐る恐る部屋を覗けば、まず目に飛び込んできたのは椅子に縛り付けられた男だった。顔に布をかぶせられて座っている。その男の足元、否この部屋のいたるところには血まみれのナイフや、ロープが散らばっている。地面や壁にも血が飛び散った痕跡がある。この男が終夜に何をされていたのか、想像するのは難しくない。
 明依は驚きのあまり息をすることも忘れてゆっくりと一歩後ずさったが、足が戸にぶつかり、コンと軽い音が室内と廊下に響いた。
 その瞬間、男は顔を上げて椅子に縛り付けられたまま暴れ出した。

「もうやめてくれ!」

 急に騒ぎ出す男に、明依はしばらく唖然としていた。しかし、すぐに正気を取り戻して、小さな声で暴れる男に言った。

「静かにしてください。何もしませんから」

 明依はそういって男を落ち着かせると、顔にかぶせてあった布を取り去った。男の顔はいたるところにあざが出来ており、腫れあがって原型をとどめていなかった。

「頼む、殺してくれ。あの男が返ってくる前に。怖い、もう嫌だ」

 手がロープに食い込んで血まみれだ。助けてくれ、ではなく殺してくれと他人に頼むなんて異常だ。一体どれだけ酷い事をされたのか考えただけで恐ろしいが、こんなことを平気でできる男と二人きりで防音の座敷に入っていたことに、明依は背筋が凍る思いだった。
 明依が男の手からロープを外そうと試みるも、特殊な方法で結ばれているのか全く外れない。仕方なく近くにあった血が固まってさびているナイフを手に取ると、男は再び暴れ出した。

「ロープを切るだけです!動かないでください」

 明依はそういって男の手と椅子をつないでいたロープを切断した。手が自由になった事を確認した男は、明依を押しのけて出入り口の外へと走り出していく。

「待って!鍵が、」

 男が外に出ようとしているなら、先ほど内側から鍵をかけたのだから外に出られるはずもない。しかし、男の足音は既に聞こえない。

「行っちゃった」

 この迷路のような地下室で動き回る男一人を探している時間はない。もしかしたら別の出入り口があるかもしれないと、自分の罪悪感をかき消す理由を考えて、宵探しを続行した。宵を見つけられなかったら元も子もない。

 しばらく歩いていると今度は、鉄格子が並ぶエリアへと足を踏み入れた様だ。空いている所がほとんどの様だが、いたるところに血を拭き取った様な痕跡がある。一つ一つ慎重に眺めていると、一つの鉄格子の奥に片手を手錠に繋がれ、自由を奪われている男がいた。手錠から伸びている鎖は、壁に打ち付けられている。男は眠っているのか、壁の角に体重を預けて力なく座っていた。地面には飛び散った血と、血だまりだった場所が渇いた痕跡があった。

「宵、兄さん?」

 聞こえるくらいの声でそう問いかけたが、男はピクリとも動かない。

「むら、くも」

 動かないまま呟いた声は掠れていたが、間違いなく宵だった。正常な判断も出来ない程疲弊しているらしい。叢雲の『犯人でなければ解放する』という言葉を信じて待っていたのだと、明依は目に涙が溜まっていくのを感じた。胸が締め付けられる思いだ。

「宵兄さん、待ってて。今出してあげるから」

 終夜から奪った鍵の束を、絡まる指で一つずつ手に取って鍵穴に差し込んでいく。早くこんな場所から出してあげたい。それだけが明依の望みだった。

「明依……?どうして、ここに」

 宵が顔を上げた事は視界の端で確認できたが、それに返答する余裕は今の明依になかった。

「鍵が合わない。なんで、ここまで来て」

 鍵の束はどれ一つとして、鉄格子の鍵穴と一致しなかった。明依は涙を袖で強引に拭った後、もう一度すべての鍵を鍵穴と合わせてみるが、結果は同じ事だった。

「明依、どうして来た。早くここから出るんだ」

 宵はまだ少しぼんやりとした様子だったが、はっきりと明依に向かってそう言った。

「宵兄さんを助けに来たの」
「俺の事はいい。早くここから出ろ。終夜に見つかる」
「大丈夫。終夜は丹楓屋で眠っている。十六夜さんが協力してくれたの」
「十六夜が?」
「吉野姐さまも日奈も、めんどくさがり屋の清澄さんだって、満月屋を維持するために頑張ってる。叢雲さんも、炎天さんも宵兄さんをここから出す為に必死で動いてくれてる。誰も宵兄さんを犯人だなんて思ってない。一緒に、ここから逃げよう」

 逃げよう。そうは言うものの、これ以上の考えがあるわけではなかった。
 涙を溜める明依に、宵が笑って伸ばした手は鉄格子の間を通って明依の頬に触れた。冷たい手が、明依の体温を奪って少しずつ温かくなっていく。明依は頬を寄せて目を閉じると、涙が宵の指を通って地面に落ちて行った。

「それなら安心だ。俺は大丈夫。だから頼むよ明依、もう心配させないでくれ。あんな思いはもう、したくない」

 宵の言う〝あんな思い〟が、旭が死んだ日に主郭に入っていった時の事であると想像するのは簡単だった。こんなに優しい人が、旭を殺した犯人であるはずがない。

 一瞬シンと静まり返った時、明依は異常さを察知した。耳を澄ませている様子の宵も同じ様だ。
 ずるずると何かを引きずる様な音が、徐々に大きくなっていく。

「明依!早く行け!」

 不気味な音の正体が、心もとない光に照らされる。遠くから真っ直ぐに、こちらに近づいてきていた。
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