造花街・吉原の陰謀

5:地獄の底

「職務放棄なんていい御身分じゃないか」

 何かを引きずる音の間を縫って聞こえてきた声からは、何を考えているのか読み取ることは出来ない。しかし声の主は、間違いなく終夜だった。

 睡眠薬入りの食事を平らげ、そう時間が経たない間に眠った様子を間近で見ていた。

 こんなにすぐ行動できるものなのか。
 何より、地下室の鍵は間違いなくかけてきたはずだ。
 どうやって地下室の中に入ってきたのか。
 そんな事を考えていられた時間はおそらく一秒にも満たなかったはずだ。

 終夜は片手で人間の髪を鷲掴みにしたままこちらに向かってくる。
 ズルズルと不気味に響く音の正体だった。引きずられている人間は脱力しきっていてピクリとも動かず、通ってきた道には血の跡が滲んでいた。

「俺は眠い目を擦って働いてるっていうのに。放置された挙句、追ってきた先に別の男がいるって、さすがに自分が可哀想になってくるよ」

 終夜は欠伸をして目を擦っている間も変わらず明依の方へと歩いてくる。
 ふいに男の髪を掴んでいた手を離した。
 ゴトリと鈍い音を立てて顔面から地面に落ちた男は、やはり指先一つ動かす様子はない。その人物をよく見れば、先ほど明依が逃がした男だった。

 状況を理解した明依が終夜を見れば、視線が絡んだ後、彼は薄く笑った。

 〝吉原の厄災〟。

 終夜がそう呼ばれる理由の全てを、この情景が物語っている気がした。

「早く行け!」
「いや」

 急かす宵にそういった明依は、鉄格子の隙間から宵の手を握った。考えなければいけない事が多すぎて頭が追いつかない。

 しかし、終夜がここにいる時点で、どんな手を使っても宵を救い出すという目的は達成できないという事だ。

「離れたくないよ。宵兄さん」

 どうせ逃げられないなら、離れたくない。切羽詰まった状況で出した答えは、この計画同様思いつきばかりのまとまりのないものだ。

「どうやらアンタ達は、生まれた星が違うらしい。残念だね」

 明依のすぐそばで立ち止まった終夜は、残念な様子など微塵も感じさせない口調でそう言った。

「そういう事だから。一緒に来てくれる?」
「離れたくないって、言ったでしょ」
「じゃあ後の事はもう、成り行きに任せるって事で」

 おもむろに銃を取り出した終夜は、その銃口を明依へ向けて微笑んだ。

 本物の銃を生きている間に見る事になるなんて、それ所か、その銃口を向けられる日が来るなんて考えたこともなかった。そんなことを頭の隅で思いながら、引き金にかけた終夜の指に徐々に力が込められていく様子を他人事のように見ていた。

 しかし、最後に見るのがこの男なんて死んでも死にきれない。と、宵へ移してから一秒と経たず、鼓膜を突き破りそうな程瞬間的な乾いた音が鳴り、何かが目の前を横切った。大して広くない廊下に飽和した後の残響は、平衡感覚さえままならなくさせる。

「あれ、外した?」

 自分が撃たれるとばかり思っていた明依だったが、終夜の放った弾は宵の首元を薄く抉っていた。終夜は銃を眺めたり触れたりと一通り確認した後で、今度はしっかりと銃口を宵へと向けてすぐに引金に指をかけた。

「待って!わかったから!」

 咄嗟に叫んだ明依に、終夜はピタリと動きを止めた。少し間を開けて引金から指が離れた事を確認したが、彼から目を逸らすことが出来ない。
 そのまま慎重に息を吐き出せば、釣られて身体中に入っていた力が抜けていく。

 終夜は宵へと向けていた腕を下ろして、深く息を吐き捨てる。その様子にはどこか余裕がない。まるで自分に落ち着けと言い聞かせている様にさえ見えた。それから小さく鼻で笑った終夜は、色のない冷たい表情で明依を見た。

「何も喋るな。前だけ見てろ。それから、さっさと歩け。一つでも間違えたら、今度こそ殺す」

 そう言った終夜は、明依に背を向けて歩きながら拳銃を放り投げた。それは横たわって動かない男の背中に鈍い音を立てて落ちた。

 明依は手のひらを強く握りしめた。宵を助ける所か、あの弾丸がもし正確に当たっていれば怪我では済まなかったかもしれない。
 本気で助けられると思っていた自分が、酷く馬鹿らしく感じた。

 ふいに手の甲に触れた冷たい何かに明依は視線を移そうとしたが、すぐに思いとどまった。それが宵の指だと認識する事にそう時間は必要なかった。トントンと数回、明依の手の甲の上を跳ねる。いつもと何一つ変わらないその優しさが、今は猛毒の様に思えた。

 明依は手の甲に触れている宵の指先を逆の手で優しく握った後、ゆっくりと離して立ち上がり、何一つ間違える事なく、終夜の背中を追った。

 振り返る事なく進む終夜と、それに続く明依。何となく違和感を感じていた。その正体は、聞こえる足音が一人分だという事だ。
 終夜の足音や着物が擦れる音は何一つ聞こえない。

 不気味で堪らなかった。不規則に揺れている影だけが、終夜が生きて存在している事を証明している。

 不意に誰かに見られている様な視線、違和感の様なものを確かに感じた。明依が無意識に振り返ろうとした時、終夜は立ち止まって振り返り、明依を見た。それからすぐ、明依の後方へと視線を移した。

「今度は俺が招く番だね」

 終夜は瞬きを一つして明依へ視線を移す。それから、先ほど男が拘束されていた部屋に入り、明依の方を振り返ると中に入る様に促した。
 明依が室内に入れば、すぐ後ろで扉が閉まった。

 拷問部屋へ誘導したという事は、簡単には殺さないという事なのだろうか。この男に生死を握られる事は、丹楓屋で口元に運ばれた料理を飲み下す事なんて可愛く思えてくる程の屈辱に違いない。
 それより前に自ら命を絶つ手段を、明依は考えていた。

 自暴自棄になった思考回路は、終夜への恐怖を上回っている。

「そんな期待した顔しないでよ。アンタのせいでもうやる気なくなっちゃったんだから。まァ、どうしてもって言うなら頑張るけど」
「頼まれたって嫌に決まってるでしょ」
「あれ。俺、もしかして嫌われてるの?」

 終夜は拷問器具を乱雑に並べている棚を片手で押した。その棚は壁を突き抜けて後ろに下がっていき、人一人通れる程度のスペースをあけて止まった。

 どうやら隠し扉になっているらしい。この先に何があるのか、この男が何をしたいのか、明依には皆目見当もつかない。そんなことを考えている明依を他所に、終夜は振り返って笑顔を作っていた。

「大嫌い」

 明依は〝大嫌い〟の一言に感情の全てを込めて冷たく言い放ったが、終夜は意にも介さずに笑って明依に背を向けながら隠し扉の中に入っていく。

 終夜に先ほどまでの圧をかけるような雰囲気はもうない。
 それ所か、気軽に話しているような感覚にさせる。
 完全に終夜のペースになっている事に嫌悪した。

 しかしどうすることも出来ない現状で明依にできる精一杯は、終夜の背中を睨む事くらいだ。

「好かれるくらいなら嫌われてた方がいいんだけど、俺は別にアンタの事嫌いじゃないよ。本気で面倒なヤツだとは思ってるけど」

 言い返そうと終夜の背中から後頭部に無意識に視線を移した時、隠し扉の先の全貌が見えた。正直に言えば拍子抜けだ。

 壁一面の大きな本棚に本が詰め込まれているだけではなく、床にも本が積まれている。
 木で作られた簡素な机と椅子が一つずつ。

 てっきりとんでもない危険や秘密が隠されているのかと思ったが、なんて事のない部屋だ。誰も招く気のない、自分の為の空間なのだろう。

 それを拷問部屋の隣に作る神経を理解できる日は来ないだろうが。

 一つしかない椅子をズルズルと引きずって明依の前に移動させた終夜は、明依が座った事を確認してから机に腰かけた。
 そして笑顔のまま、パチパチと拍手をした。

「こんなにあっさりここに来られるとは思ってなかった。アンタがとれる行動と持っている情報を考えると、これ以上ないベストな選択だった。正直驚いたよ。お見事」

 まるで最初からここに来る事も、その方法もあらかた検討が付いていたかのような言い方だ。

「アンタが俺から奪った鍵はスペアで、あらかじめ一部抜いておいた」

 終夜が取り出した鍵の束には、擦り切れた布がストラップ代わりに巻き付けてある。確かに主郭の中に入った時に見た鍵の束だった。
 同じ鍵を持っているなら、地下の鍵を開けられて当然だ。

 完全に終夜の手中だった訳だ。つまりは最初から、宵を救い出す事など不可能だったという事だ。悔しさから噛みしめた唇からは血が滲み、鉄の味がした。

「アンタの性格は話に聞いてたからね。旭が死んだ日、多分来るだろうと思って立入許可書を発行してた。それから実際会ってみて、俺が宵を捕まえたらアンタはここに来ると踏んだ。だから前もって種を蒔いておいた」

 そういって終夜は明依の着ている長羽織を指さした。
 無遠慮に睨む明依に、終夜は困った様に眉を潜めて息を吐いた。

「でもね、薬を盛られるのは想定外だった。睡眠薬なんてもう効かないと思ってたんだけど、気付いたら20分くらいは眠ってたから焦ったよ。追って来たら、フラついて壁にぶつかるし、屋根から足踏み外しそうになるし」

 ふらついている状態で、二階の座敷から屋根に上がる事が出来る身体能力を持っているなんて想定していない。出入口で見張りをしている十六夜が無事だろう事だけが唯一の救いだ。

「で、本題なんだけど。あの薬、アンタが盛ったの?」

 心臓が嫌な音を立てた。変わらず纏っている終夜の軽薄さが、逆に恐ろしく感じる。十六夜と協力関係にあると分かれば終夜は何をしでかすかわかったものじゃない。

「そうだけど、何?」
「俺はずっとアンタの隣にいたよ。もう一回聞くけど、その状況でアンタが俺に薬を盛ったの?」
「そうだって言ってるでしょ」
「ふーん」

 考えるよりも先に口が動いた。明依は必死に頭を動かしていた。次に来るであろう、どうやって薬を盛ったのかという質問に、なんと答えるべきなのか。

「才能あるんじゃない?暗殺者への転職をおすすめするよ」

 意外にあっさり引き下がった終夜に、明依は胸を撫でおろした。
 何も言わなくなった終夜は、薄ら笑いを浮かべたまま明依を見ていた。この男の余裕に、腹が立って仕方がない。

「結局アンタは、〝お前を誘導した。俺の思い通りだ〟って言いたいの?」
「そんな酷い言い方してないけど、そういう事かな。一緒に遊べて楽しかったよ」
「アンタね……!」

 そういう終夜に、明依はとうとう我慢できずに椅子から立ち上がった。しかし次の瞬間、身体の力が抜けて膝から崩れ落ちた。立ち上がりたいのに、身体がいう事を聞かない。

「耐性がない所か毒を盛られた事にも気づかないなら、薬を盛る技術が天才的でも失格。暗殺者への道はまだまだ遠いね」

 唖然としたまま座り込んでいる明依の前にしゃがみ込んだ終夜は、変わらず笑顔を作っている。
 文字通り〝遅延性の毒〟を見舞われたのは、明依の方だったという事だ。

「ここまで来た度胸だけは褒めてあげる。でも、アンタは汚い底なし沼に片足突っ込んで(はかりごと)やってるより、仰々しく飾り立てられた表舞台で、着せ替え人形やってる方がお似合いだよ」

 悔しくてたまらない。しかし毒を盛られたのだと認識した頭は、次第に回らなくなっていく。

「宵兄さんを、どうするつもりなの」
「勿論、殺すんだよ」
「だったら、どうして、殺さないの」
「宵が認めてくれないからだよ。今生の罪くらいは認めさせてから殺さないと、寝覚めが悪いじゃないか」

 明依の質問に、終夜は淡々と答えていく。回っていない頭でも、肝心な本当に聞きたい事を聞き出せないのだと理解できた。

 とうとうバランスを保つことが出来なくなった明依は地面に倒れたが、終夜は何をするでもなく薄ら笑いを浮かべたまま明依を見下ろしていた。

「自分の無力さを痛感してる今ならよくわかるだろ?二度目の忠告だよ。アンタは自分すら守れない。次があるなら気をつけようね」

 目を開けている実感はあるが、目の前はぼやけていて何も見えない。すぐそばにいるはずの終夜の声は遠くから聞こえている様な気がした。

「もう眠っていいよ。二度と起きないかもしれないけど」

 終夜がそう告げ終わるより前に、明依は目を閉じた。
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