造花街・吉原の陰謀

6:意識の海から這い出て

 目を開けてしばらくは、自分が起きているのか眠っているのか、さらに言うなら本当に今目を開けているのかどうかすらわからないほどぼんやりしていた。
 何度か瞬きを繰り返せば、じわじわと頭が痛くなってくる。昨日の座敷で飲み過ぎたのか。だったら昨日の客は結局酒だけ楽しんで、そのまま帰って行ったのか。そんなことを考えて辺りを見回せばここは見慣れた部屋でも、自室でもない事に気が付いた。
 ああ、そうか。丹楓屋に応援に来たんだ。

 一通り考えを巡らせた後、飛び起きたと同時にぼんやりとした感覚は吹き飛んだ。明確な頭痛になって帰ってくる。自分の身体を確認したが、どこも変わったところはない。毒を飲まされたはずだ。
 そもそも、主郭の地下で眠ったはずだ。自力で帰ってきた覚えもない。一体あれから、何があったのか。
 突如として開いた襖の前に立っていたのは、十六夜だった。
 
「起きたのね、よかった」

 薄っすらと笑顔を浮かべた十六夜は、布団の隣に座った。

「あなたもあの料理を食べたのね。咄嗟の事で、そこまで気が回らなかったの。ごめんなさい」

 十六夜は申し訳なさそうにそう言って明依に頭を下げた。どうやら十六夜は自分が終夜の食事に入れた睡眠薬のせいで目を覚まさなかったと思っているらしい。

「私、終夜に毒を、」
「毒?」

 十六夜が確認するように呟いた後、部屋の襖が開いた。

「最初から毒なんて盛っちゃいないさ」

 部屋に入ってきたのは、勝山だった。勝山は入り口のすぐ近くの壁に寄り掛かった。

「勝山大夫の言う通りよ。お医者様も、睡眠薬を飲んで眠っているだけだから何も問題ない。って言っていたわ。慣れない環境に疲れが溜まっていて、少量でも薬がよく効いたんだろうって」

 つまり終夜は毒なんて盛っていなかった。これから死ぬのだと認識したとき、どう反応するのかが見たかったのだろうか。考え込んでいる明依を、勝山はどこか愉快気に見ていた。

「考えたって何もわかりゃしないよ。あの男は、そういう男さね」

 勝山がそういうのだから、考えても何もわからないのだろう。
 思い返せば、旭が死んだ日に主郭に立ち入った時。廓遊びはしきたりにのっとってやれと言う叢雲をひとしきり揶揄った後、立入許可書を見せていた。今回も揶揄っただけのつもりなのだろうか。それならば、悪趣味にも程がある。あの男は一体、どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのか。

「それで、終夜と話すことは出来たのかい」
「どうしてそれを、」

 そういう勝山に、明依は十六夜を見たが、彼女は驚いた顔をして勝山を見ている。どうやら十六夜が勝山に話をした訳ではないらしい。
 それなら勝山は、明依が丹楓屋に応援に来た理由がわかっていただけではなく、終夜に食事をして帰る様に促せばどう行動するのか理解していたという事になる。本当に大夫と呼ばれる人物は底が知れない。
 唐突かつ鮮明に浮かんできたのは、傷だらけの宵の姿だった。宵は今も、あの薄暗い地下室に繋がれているのだろう。そう思うと、胸の内が強く締め付けられる。

「その様子じゃ、終夜に一杯食わされたね」

 異論はない。勝山の言う通りだ。

「詳しい事を聞くつもりもないし、終夜が何考えてるのかわかりゃしないけどね。アンタをここまで運んできたのは終夜だよ」

 どうしてわざわざ。驚きすぎて声にはならなかったが、顔にそう書いてあったのだろう。勝山はため息にしては短く息を吐き捨てて明依を見た。

「一方的に押し付けてきたんだよ。眠っている黎明を抱えたまま、わざわざ私のいる揚屋まで来て『丹楓楼に運んでおくので後の事はお願いします』ってね」

 人間は驚きすぎると脳内処理に夢中になって、相槌の一つも打てなくなるらしい。毒を盛ったから死ぬかも。なんて仄めかしていた終夜が、わざわざ丹楓屋に運ぶというのはどういう了見なのか。明依は勝山の話の続きを待った。

「どういうことか聞いたら、『会いたかったって誘惑されたから、抑えきれなくて無茶をさせた』とかアホな事言って去っていったよ。まったくあの男は。肝心なことは言いやしないのさ」

 あの男と宵の件以外で関わるつもりもないし、そんな関係になるつもりも毛頭ない。誤解を招く様な言い方は心底勘弁願いたい所だが、幸いにも勝山はその終夜の言い方を全く信用してはいない様だ。

 決死の覚悟で主郭の地下に赴いたというのに、つまるところ終夜の遊び相手所かおもちゃになっただけだ。
 主郭の地下が寒くて羽織った終夜の長羽織も、立入許可書も手元にある。その終夜の行為に、どこまでも挑発的な男だと思う辺りが、知りたくもない終夜という男の情報を刻み込まれている様で不快だ。ただ、数回関わっただけで終夜の性格を理解しきっているとまでは言わないが、当たっている自信がある。本当に悪趣味な男だ。

「勝山大夫。あの、この事を、満月屋には?」
「伝えた方がよかったかい」

 明依は安堵の息を吐いた。『無茶はしないで』と言った日奈の言葉をはぐらかして出てきたのだ。明確に返答をしていないと言えばそれまでなのだが、この事を日奈だけにはどうしても知られたくはなかった。
 勝山のこの様子であれば、わざわざ満月屋にこの事を報告することはないだろう。明依の行動の意味を探ろうとするつもりもないらしい。終夜と親し気な様子はあったが、彼に肩入れしている様でもない。かといって、明依の味方というわけでも無さそうだ。

「黎明。この吉原って街は、底なし沼に浮かべた板の上に建っているようなもんさ。沼に足を取られれば、後は落ちていくだけで誰も助けちゃくれないよ。知らない方が幸せな事もあるって事だ。気を付けるんだね」

 勝山はぶっきらぼうに言い放つと、襖を閉めて出て行った。勝山なりの心配の言葉なのだろう。丹楓屋で好き勝手やっている事に気が付いておいて、口を出さずに見守ってくれた勝山の懐の深さには感謝しなければいけない。
 十六夜と二人きりになった部屋には、しばらく沈黙が流れた。

「十六夜さん。ごめんなさい。せっかく、チャンスを作ってくれたのに」
「黎明はよく頑張った。無事で本当によかったわ。座敷を覗いて終夜さまがいなくなっていた時、生きた心地がしなかったもの」

 十六夜はそう言うと、思いつめた様に俯いた。

「起きる可能性がゼロだと思っていたわけじゃないの。でも、まさか睡眠薬を飲んでいる状態で窓から外に出るなんて考えもしなかった。もう少し慎重になるべきだったわ」

 悔しそうに唇を噛みしめる十六夜から視線を逸らした明依は、光が漏れる障子窓へと視線を移した。

「私は、終夜の手の内で踊っただけだったんです」

 明依がそう呟けば、視界の隅で十六夜が顔を上げたのが分かった。しかし、目を合わせれば泣いてしまいそうだった。自分のしたことがどれだけ無意味で、それだけではなく、宵を危険に晒したか。惜しみなく協力してくれた十六夜には、その程度の事を知る権利がある。本当の事を言わなければ。

「終夜さまは、一体どこまでわかっていたの?」

 続きを言い出さない明依の気持ちを察しての事か、十六夜は優し気な口調でそう問いかけた。

「私が宵兄さんを助ける為に、何とかして主郭の中に入ると予想していたと聞きました。だからその材料に、羽織と立入許可書を私の手元に置いたままにしていたって」
「私は、というより勝山大夫以外、楼主を含めたこの妓楼の人は、終夜さまと気さくに話をする人間はいないの。みんな、終夜さまが怖いのよ。あなたたちにとってしてみれば、あまり想像がつかないことかもしれないけれど」

 吉原の中にあるどこの妓楼も、主郭の人間がたびたび様子を見に来る。楼主や遊女が変な動きをしていたら、すぐさま対処できるように。丹楓屋で終夜が担っている役割は、満月屋にとってかつては旭が行っていた事と全く同じだろう。
 十六夜の言う通り、明依には全く想像ができなかった。どこの妓楼も、管轄している人間とはそこそこうまくやっているものだとばかり思っていたが、確かに明らかに見張られている事が分かっていて気分のいい人間はいないだろう。吉原に来てすぐに、旭から見張られてうんざりしていた生活を思い出した。

「宵兄さんは、地下室にいました。でも、助けられなかった。それどころか、危険な目に合わせました」
「宵さまには、会えたのね?」

 十六夜は明依の目を見て、念を押すようにそういった。その圧に若干気おされながら頷いた明依を見て、十六夜は息を漏らしながら優しく笑った。

「だったら大丈夫。何もかもうまくいくわ」
「どうしてですか?」
「だって、自分のせいで黎明が今、どんな顔をしているのか分かったでしょうから。あなたにそんな顔をさせたままなんて、私の知っている宵さまなら、死んでも死にきれるはずがないわ」
「大袈裟ですよ」
「本当に大袈裟かしらね。宵さまは、黎明を特別気にかけていた。きっと、そんな悲しそうな顔の黎明を見て、まだ生きたいと思う勇気が持てたんじゃないかしら」

 もしも主郭の地下で起こった一連の出来事を目の当たりにしていたとしても、十六夜は同じことを言うだろうか。
 他人に対する残酷で無関心な態度。確かに前を歩いているのに耳を澄ませても聞こえてこない足音。それから、不敵に笑う顔。終夜という人物はもしかして、地獄から来た鬼なのではないかと馬鹿げた事を本気で考えていた。明依にとってみれば、そんな終夜に対して沸き上がる感情が、恐怖ではなく怒りだという事が唯一の光の様に思えた。現状手詰まり状態には違いないのだが、まだ戦える証拠だ。
 しかし、もしも宵の様に成す術のない状況だとしたら、怒りなどすぐに別の何かに変わり果てるだろう。例えば、主郭の地下で逃がしてやった男の様に。

「ただ、今は待ちましょう。宵さまを助けたいと動いているのは私達だけではないはずよ」

 十六夜は〝いつも通り〟の様子だ。既に諦めているのかもしれないとさえ思ったが、明依の知っている十六夜という人物は、誰かと深く関わる様な人間ではなかった。その十六夜が、宵を助け出す事に協力させてほしいと自ら言ってきたのだ。それにどれだけの思いがあったのかなんて考えるまでもないだろう。

 十六夜は少し休むようにと言い残して部屋を去っていった。せめて丹楓屋での仕事が終わるまでの間に次の方法を考えようと意気込んだのはいいが、薬で深く眠ったからなのか頭がぼんやりとしてまだ正常に機能していないようだった。
 状況では、叢雲や清澄や炎天を含めた主郭の人間に任せる以外に方法はないのだろうか。当然、布団に横になっても眠れるはずもなかった。
< 17 / 79 >

この作品をシェア

pagetop