造花街・吉原の陰謀

8:なごり雪

「宵兄さん」

 明依は掠れた声でそう呟いた。たった数日前、主郭の地下に繋がれていた。目の前で怪我をさせて、助け出せずに今こうやって自分だけのこのこ帰ってきたはずだった。現状を理解できず固まったまま動かない明依と日奈に、宵は珍しく少し焦った様子を見せた。

「いや、あの。叢雲さんが俺の無実を証明してくれたんだ。それで、どうせならサプライズみたいな感じで登場するのはどうだろうって話になったんだけど、」

 話を遮って明依が飛びつくと、宵はよろめきながらも明依を支えた。少し間を空けた後、明依の頭を抱き寄せた宵は、それから頬を寄せた。

「言ったろ。大丈夫だって」

 宵は明依にだけ聞こえるくらいの小さな声でそういう。明依は小さく頷き、宵をさらに強く抱きしめた。短く声をもらす宵に、明依は弾かれたように身体を離した。明依が石段から転がり落ちた時には立場が逆だったと思わず吹き出せば、宵も同じことを考えた様で短く笑った。

「おかえり、宵兄さん」
「うん、ただいま」

 宵は頷いて、明依から日奈へと視線を移した。ぽかんとしていた日奈は、はっと息をのんで困ったように笑った。

「びっくりしすぎると、涙出ないんだね」

 日奈はそういった後明依を見た。頷いて二人で笑い合えば、日奈は駆け出して宵に飛びついた。宵はいつもの優しい笑顔で日奈の頭を撫でる。

「おかえりなさい、宵兄さん」
「ただいま日奈。苦労をかけたね」
「いい経験だったよ」

 日奈は首を振って宵にそう答えた。

「実は昨日には外にいたんだけど、いろいろやらなきゃいけないことがあってね。とにかく、日奈の大夫昇進の話は流れていないから安心してほしい」

 日奈の両肩に手を置いて笑った宵がそう説明する。叢雲や炎天はてっきり手詰まり状態だと勝手に決めつけていたが、約束通りしっかりと宵の無実を晴らす為に動いていたらしい。日奈の一件が流れていないことに、明依は安堵のため息を吐いた。

「それから、大体の日取りももう決めてある。まずはそこから話を、」
「宵兄さん、ちょっと待ってよ」

 明依は宵の話を遮った。まだ感動の再会の余韻に浸りたい気分だった事には違いない。あの日からついさっきまで、助け出す事が出来なかった自分を責めていたのだ。しかし、今となってはそんな事よりも宵の怪我が心配だった。まともに立っていられるのが不思議だと思うくらい身体中怪我だらけなのだ。明依は続けて口を開こうとしたが、待てと言わんばかりに宵は片手を明依の前に出した。

「悪いけど、休んだ方が…は聞かないよ」

 何を言おうとしているのかわかっている宵に、やっぱり、と明依はため息を吐いた。ふいに吉野と清澄を見たが、二人とも深く息を吐き捨てて首を横に振った。なるほど、この話をしたのはどうやら明依だけではないらしい。それなら、宵は完全な仕事中毒だと思ったのも明依だけではないはずだった。

「宵、無事だったな!」

 太い声でそう叫んだ声の主は、廊下中にドスドスと大きな音を立てながら日奈の部屋に入ってきた。身の危険を感じたのか、一歩引いた宵を無理やり抱きしめたのは炎天だった。

「苦しい」

 本当に苦しそうな声でそういう宵に、炎天は身体を離して彼の肩に両手を乗せた。

「これを無事とは言わんな!早く治さないと、ミイラ男なんてあだ名で呼ばれかねんぞ!」
「ミイラ男…」

 そういって炎天は高らかに笑う。ショックを受けた様子の宵は、ぽつりとそう呟いた。明依はゆで卵事件を思い出し、炎天の空気の読めなさは天性のものなのだと思った。不謹慎極まりないが、炎天の発言で場が和やかになるのもまた、この人の才なのだろう。

「まったく。不謹慎極まりないな。我々の力不足でこんな事態になったというのに」

 そう言って部屋の前で立ち止まったのは叢雲だった。

「叢雲さん。本当に、お世話になりました」
「何も言わないでくれ、宵。無実の場合はすぐに解放すると約束しておいて時間がかかったんだ。申し訳ないでは済まない」
「約束を守ってくださってありがとうございます。叢雲さま」

 叢雲が頭を下げる宵を制せば、吉野が優しい笑顔を叢雲に向けてそういった。

「宵兄さんの無実は、どうやって証明されたんですか?」

 そう問いかける日奈にみんなが視線を向ける。その視線に、哀れみが含まれているという事は明依にもわかった。当然だ。宵の無実が証明されたという事は、これで日奈と旭が友と慕った終夜は嘘をついていたという事になる。実際、明依もあの残忍な終夜と日奈と旭が友達だったという事が未だに信じられずにいた。日奈と旭の前では猫をかぶっていたのだろうか。それとも、昔は優しい子だったのだろうか。何か目的があるのだろうか。
 日奈を見ながら眉をほんの少し下げていた叢雲は、いつもの固い表情に戻して口を開いた。

「まず、旭の死亡推定時刻に宵が何をしていたのか調べた。日付の入った書類と受取人の証言から雛菊の大夫昇進に向けて準備をしていた事と、そもそも宵に旭を殺害する時間はなかったと言う事がわかった。満月楼を出て書類を提出して帰るまでの時間も証言がとれていた。しかし、頭領に書類を見せて説明をしても証拠不十分として相手にされなかった。だから時間がかかった訳だが、もう一度調べ直した結果、宵が記載した書類に日時が書いてあるものがあった。数か所に筆跡鑑定を出して、いずれも宵が書いたものだと結果が出た。それが無実の証明になったという事だ」

 叢雲はあくまで事務的にそう説明する。宵の無実を証明するだけなら、叢雲が最初にあげた理由だけで充分すぎる気がした。やはりそこに汚い権力が働いたのだろうか。裏の頭領さえ、本当に終夜のいいなりなのだろうか。
 叢雲に移っていた視線を一心に浴びる事となった日奈は一つ頷いて薄く笑った。

「納得しました。ありがとうございます、叢雲さん」

 そういって叢雲に頭を下げた日奈は、宵に向き直った。

「宵兄さん、疑っている訳じゃないの。気持ちを整理するためにも、本当の事が知りたかっただけ。気分を悪くさせてしまったならごめんなさい」
「何も気にしていないよ。知りたいと思うのは当然の事だ」

 笑い合う日奈と宵を見て、明依はようやく本当の意味で安堵した。終夜を許す事は出来ない。しかし、今は終夜の事を脳内で整理する気にはなれなかった。これでまた元の生活に戻れる。明依にとっては、今はそれだけで充分だった。

「しかし、これで解決ではない。今も犯人は野放し状態だ」
「犯人など、もう決まったも同然だろう」

 凛とした口調でそういう叢雲に、圧をかけるような口調で言い返すのは炎天だ。炎天はすぐに熱くなる所がある。それがいい所なのだが、清澄や叢雲と比べると終夜を敵視している原因でもある。つまり、終夜が犯人だという事だろう。

「まだ決まったわけではない。しかし犯人が誰にしても、終夜の事は早めに手を打った方がいい。手遅れになる前にな」
「今まで好き勝手にさせ過ぎたんだ。あの男は確かに強い駒だ。しかし、旭がいない今制御しようがない。手に余るくらいならこの際いっそ、」
「炎天」

 叢雲に続いて言葉を発した炎天を清澄が制した。その一言ではっとして日奈をみた炎天は、「すまなかった」と呟いた。〝この際いっそ、〟その言葉の続きは、やはり聴き慣れない言葉だろうか。
 本当に終夜という人物は嫌われ者らしい。しかし当の本人は、おそらく何とも思っていないのだろう。これから吉原の裏側は、終夜を台風の目として大きく変わろうとしているのかもしれない。

「みんなしてそんな難しい顔して!運が逃げちまうよ!」

 そう言ってやってきたのは小柄な初老の女性だった。

野分(のわき)さん!」
「おや明依じゃないのさ。久しぶりだねェ。元気にやっているかい?」

 野分は吉原に裏ルートで入ってくる人間の管理をしている。はっきりした喋り口調だが情の深い人で、子どもが吉原に売られた経緯を聞いてよく涙を流している。明依は、野分によって吉原に迎え入れられた。

「まったく。頭領も何考えてんのかわかったもんじゃないね。私の証言まで無下にするなんて、変わっちまったモンだよ」

 野分は呆れ口調で軽くそう言った後溜息をついたが、その野分の発言に明らかに場の雰囲気が一変した。

「歳を取って丸くなったなんて言われちゃいるけど、ありゃ怖気付いてるだけさね。例の一件以来変わっちまったのさ。まァ無理もないのかもねェ。なんてったってご子息が、」
「野分さん、それ以上は」

 止まる事なく喋り続ける野分を遮ったのは叢雲だった。はっとした野分は短く息を吐き捨てると「しゃべりすぎちまったね」と小さな声で呟いた。野分の言葉の続きは気になったが、とてもそれ以上の事を聞くことが出来る雰囲気ではなかった。

「そうだった、宵。ほら、言われた通り連れてきたよ」
「野分さん、ありがとうございます」

 野分はいつもの調子でそう言うと、道を譲る様に横に移動した。何をだ、と思ったのは明依だけではないはずだ。しかし、視線を下へとずらせば、そこには震える小さな女の子がいた。6歳くらいだろうか。可愛い。とにかく顔がいい。こんなに可愛い生き物がいるのかとまじまじと見つめる明依と目が合った女の子は、ビクリと肩を浮かせて肩をすくめた。何を怖がっているんだと思った明依だったが、二日酔いプラス泣き腫らした顔が原因かもしれないという考えに至るまでにそう時間は必要なかった。同時に土下座したいくらいの申し訳なさと、本当はもう少しマシな顔をしているんだという言い訳と虚無感で脳内はプチパニック状態だ。

「日奈。今日からお前がこの子の姐さんになるんだよ」

 そう説明した宵は女の子を誘導する様に肩に手をやった。ビクリと反応して震える女の子の前でしゃがみ込んだ宵はニコリと笑う。

「大丈夫。優しいお姉さんだよ。日奈、この子の名前は(ゆき)だ」

 宵はぽかんとしている日奈の前に女の子を誘導した。日奈は全く状況を理解できていない。明依は辺りを見回したが、清澄も吉野も炎天もこの話はすでに知っていたようだ。しかし吉野は雪と会うのは初めてらしく「あら、可愛い子ね~」とニコニコ笑っている。
 宵が満月屋に帰ってきただけでも驚きなのだ。急に今日から世話役がつきますなんてすぐに理解できるわけもない。明依同様、日奈も混乱しているようだった。トントンと宵に肩口を叩かれた雪は背筋を伸ばした。

「ゆっ、雪です。よろしく、お願いします」

 俯いて目に涙を溜めている雪は、口をきゅっと結んだ。可愛い。顔が整っている所といい、なんだか雰囲気が日奈に似た子だと思った。

「あの、日奈です。雛菊。えっと、よろしくお願いします」

 まだ混乱している様子の日奈は、雪の前にしゃがみ込んでそういった。

「さて、日奈。これからの話をしよう。明依、その間雪に吉原を案内してあげてくれないかな」
「うん、わかった」

 そういった宵は完全に仕事モードだ。日奈が大夫になる話が少しでも進むのなら、当然なんだって協力する。

「いこうか」

 明依は雪にそう話しかけた。雪はビクリと肩を浮かせた後、こくりと頷いた。
< 19 / 79 >

この作品をシェア

pagetop