造花街・吉原の陰謀

11:中途半端な選択

「雪、これ私が小さい頃使ってた玩具なの」

 日奈はそういって箱に入ったたくさんの玩具を雪の前に差し出した。

「雪、お団子買ってきたよ。あと、帰りに目に付いたの。こけしのマトリョーシカ」

 決してシュールなこけしのマトリョーシカがイケてると思ったわけでもないし、この年頃の女の子にウケると本気で思っているわけではないが、視界の端に捉えてから目が離せなくなったのだから仕方がなかった。

 明依は団子とこけしのマトリョーシカを雪の前に差し出した。雪は控えめに、しかし嬉しそうに笑った。

「雛菊姐さん、明依お姉ちゃん。ありがとう」

 ニコリと笑う雪に、「可愛い……」と明依と日奈は呟いた。
 この笑顔を見る為ならなんだってできる様な気がする。これを母性というのだろうか。

「あらあら。この調子だと雪の部屋が玩具だらけになってしまうのも時間の問題ね」

 吉野は困った様に笑った。

「雪、こっちにいらっしゃいな。着物を一枚しかもっていなかったでしょう。宵さんに新しいものを頼まれていたの」

 そういった吉野に続いて、雪も部屋を出た。それに明依と日奈が続き、吉野は一室の襖を開けた。

「小さな子の趣味ってわからなくて。こんな感じでよかったのかしら」

 吉野は頬に手を当てて眉を潜めている。
 吉野の開けた襖の先には、部屋いっぱいの着物と装飾品が輝いていた。

 時間の問題にワンパンチで雪の部屋が着物で埋まる事が確定した。
 もはや部屋の主である雪の居場所はないだろう。

 吉野は何を思い悩んでいるのかは知らないが、呉服屋顔負けの数なのだから気に入るものがない訳がない。

「吉野大夫、ありがとう」
「喜んでくれたのね。よかったわ」

 雪が満月屋に来てからというもの、毎日がこんな感じだ。
 雪は相変わらずあまり感情を大きく表に出すことはないが、初めて会った時の様にビクビクと常におびえている状態ではなくなった。

 今日もいたって平和な日常だ。だからいろいろな事を考えてしまう。旭はなぜ殺されたのか。一体誰が。終夜の目的は何なのか、主郭はこれからどう動くのか。

 ここは妓楼で吉原の舞台裏とはいえ、気になる情報は何一つとして耳に入っては来ない。

「今日も賑やかだね」

 4人の後ろからそう声をかける宵に、雪はビクリと反応して吉野の足元に隠れた。あのミイラ男状態が軽くトラウマになっている様だ。宵の傷は、完治には遠いがだいぶ癒えてきている。

「雪、稽古の時間だよ」

 宵は最初こそ落ち込んでいたが、今はもう雪の態度にもすっかり慣れた様子だ。そして雪は小さく頭を下げた後、小走りで去っていった。

「吉野大夫、二人に例の話はしましたか?」
「ちょうどこれから話そうと思っていたところなんですよ」

 明依と日奈は顔を見合わせた。宵と吉野が一体何の話をしているのか全く見当がつかなかった。もしかして、悪い話なのだろうか。

「実はね、身請けていただく事になったの」

 吉野の言葉にその場は沈黙する。明依は言葉の意味を脳内の辞書から引っ張り出そうとしていた。

「おめでとうございます!吉野姐さま!」
「おめでとうございます!」

 明依と日奈はそういって吉野の手を握った。

 身請け、客が遊女自身の借金を肩代わりしてこの仕事から身を引かせる事。

 竹ノ位以上の遊女のほとんどは、借金を背負っている。
 例えば親が子を吉原に売るとすれば、吉原は親にまとまった金を渡す。その親が持ち帰った金が、売られた子の借金になるというシステムだ。
 売られた子は、決まった期間吉原の中で強制的に働かされる。

 つまり吉野は、その期間が終わるより前に堂々と吉原の外に出る事が出来るという事だ。

「二人ともありがとう」
「お相手はあの人ですよね!物静かな方!」
天辻(あまつじ)さま!」
「ええ、そうよ」

 食い気味に言う明依と日奈に、吉野は一歩引いて困った様に笑っていた。吉野の身請け金となれば、一般人の生涯年収は軽く超えるだろう。それだけの金を払うというのは、よほどの覚悟があるに違いない。

「じゃあ私は〝吉野大夫〟になるの?」
「なんで?雛菊大夫じゃないの?」
「だって、吉野大夫って襲名制の名前でしょ?」
「襲名?」

 日奈と明依がそんな会話をした後、二人は答えを知っているであろう宵に視線を向けた。

「吉原には、襲名を許された名前が3つある。吉野大夫、高尾大夫、夕霧大夫。現在の吉原には、どの名前も襲名している女性がいる訳だけど、必ず襲名しないといけない訳じゃない。街に大夫が一人もいなかった時期もある。ふさわしいと判断された女性だけが襲名することが出来るものなんだよ。日奈の場合、ふさわしいかどうか以前に、吉野大夫の身請けが日奈の大夫昇進よりも後の話になる。だから雛菊の源氏名のままだよ。わかったかな、明依」

 そもそも吉野大夫というのが襲名制の名前だったことなんて知らなかった明依に、宵は目を細めてわざと責める様な視線を向ける。明依は小さな声で返事をした。

 それにしても、日奈の大夫昇進の件を急ピッチで進めたかと思えば、同時進行で吉野の身請け話まで進めている。その間、楼主の通常業務も行っているのだ。多忙でないはずがない。怪我だってまだ治っていないというのに、余裕がある様にさえ見えてくる。

「そういう事で、日奈と吉野大夫を祝って宴会をしようって清澄さんが張り切ってる。それを伝えに来たんだ。俺はこれで」

 余計なお世話かもしれないがやはり一声かけようと思った矢先、宵はそういってさっさと去って行ってしまった。明依はため息ととも肩の力を抜いた。

「せっかくだし、お茶にしようよ。吉野姐さまの話も聞きたいし」
「じゃあ、私の部屋にしよう。美味しいお茶菓子があるの」

 明依の提案で、三人は日奈の部屋に移動してお茶をする事にした。しかし結局茶も菓子も大して進まないまま、話だけが先に進んでいく。

「天辻さまって、どんな方なんですか?」
「恥ずかしがり屋な方よ。何度もお会いしているのに、私と目が合えばすぐにそらしてしまうのよ」

 日奈の問いかけに答えた吉野の顔が少し赤らんだ事を、明依は見逃さなかった。吉野はいつも凛としている。そんな吉野の本心を垣間見た気がして嬉しかった。

 噂ではどこかの会社の社長らしい。吉野と同じくらいの年齢で、笑顔を見たことがない。寡黙な印象だ。しかし、誠実そうな人だった。

「そういえば聞いたことなかったけど、二人はどういった人がタイプなの?」
「そういえばタイプの人って、ちゃんと考えた事ないかも」

 明依は真剣に考えてみたが、こんな人がタイプというものが全くない事に気付いた。旭の事は確かに好きだったが、そういうタイプの人が好きなのかと言われればそうではない。

 それを言い出すと、好きになった人がタイプという一番話の盛り上がらない展開になりそうなのでやめておいた。

「それなら、宵さんの様な方は?二人とも仲がいいから」
「宵兄さん?」

 吉野は目を輝かせてそういう。宵兄さんは確かにいい男だ。しかし、欠点がない。いい男過ぎて、隣に並ぶと自分がちっぽけに感じるレベルでいい男だ。
 楼主と遊女という関係だから親しく話せているが、もし全くお互い知らない状態で話をする事になったとしたら目を合わせられない自信がある。

「私なんかじゃ釣り合わないというか。そう考える事さえおこがましいというか。日奈と二人で、大人の余裕があって素敵~ってはしゃいでいるのが一番幸せかな」
「私も明依とそうやって話しているのが幸せだな。私の中で宵兄さんは、うーん……自慢のお兄さん、って感じかな」

 日奈も同じ考えのようだ。しかし、自分で言っておいて悲しくなってくる。吉原は女の街。そこら中の女性が目移りする程美しいのは納得できるが、どうして男までこうも容姿がいいのか。

 旭は同年代の子にキャピキャピされていたし、宵は表へ出ているときによく綺麗なお姉さんに囲まれている。嫌悪感があるが、終夜だってそうだ。
 とうとう顔採用なんじゃないかと疑う始末だ。

 まあどれだけ考えた所でどうこうならないし、そもそもだが、こんな仕事をしている限り女として人並みの幸せを掴むことさえ夢物語なのだ。
 改めて実感すれば、堪らない気持ちになってくる。ずっと続くと思っていた明依の中の平和な日々が、変わっていく。旭は死んだ。吉野は吉原を去る。日奈は大夫となり、手の届かない所に行ってしまう気がした。

 気持ちが沈んでいく。周りの人に恵まれているくせに、自分でこの人生を選んだくせに、時々訪れる。成す術なく堕ちていくだけのこの感覚とは、いつになっても折り合いが付きそうにない。

「日奈のタイプは?」
「私は、思いやりのある人がいいな」
「思いやりってさ、言葉にしなくてもちゃんと伝わってくるから不思議だよね」

 吉野が何かを言う前に、日奈を巻き込んで無理矢理自分の事から目を逸らす。いつだってこの感情は手に負えない。楽しい事をして目を逸らす以外に方法はない。

「あら、こんな時間ね。もういくわ」

 吉野はそういって日奈の部屋を出て行った。静かになった部屋で盗み見た日奈の顔は、少し悲しそうに見えた。吉野が好きな人に身請けされる事を聞いて、あの男を思い出したのだろうか。なんだか今なら、日奈に本当の事が聞ける様な気がした。

「ねえ、日奈はどう思ってるの?終夜の事」

 明依が日奈にそう問いかけると、日奈は明依をみて目を見開いた後、俯いた。

「終夜に酷い事をされた明依からしたら、気分が悪くなる話かもしれないんだけど。本当は今でも、終夜がそんな事するはずないって思ってるの」
「主郭に入れてくれた時の終夜は、不器用だったけど優しい人だと思った。でも、本当の事を言うと、今はもう終夜の事をそうは思えない。どうして日奈は、終夜を信じていられるの?」

 吉野が言った通り、日奈には日奈の目で見た終夜が心の中にいるのだろう。否定はしない。しかし、少しでも終夜を疑う心があるのなら、目を覚ましてほしいと思っていた。
 主郭の地下で見た終夜は、まるで鬼の様だった。宵が満月屋に帰って来た時、炎天の言葉を清澄は止めたが、『手に余るくらいならこの際いっそ、』その言葉の続きはきっと、〝始末しよう〟という内容だろう。
 人身売買を容認しているのだ。吉原の裏側をまともだとは思っていない。しかし、終夜が当たり前の様に向けた銃、旭の死、炎天の言葉。吉原の闇は、おそらく思っている以上に深い。

 終夜は近い将来、必ず誰かに命を狙われる。
 日奈はその時きっと、旭の時と同じように泣くだろう。その時もしも、終夜を庇ったとして主郭の人間に目を付けられたら。この表現は不適切なのかもしれないが、考えても考えても終夜を心の内で想う事に何一つのメリットも感じられない。

「本当は、根拠なんて何もないんだ」
「だったら、どうして」
「ただ、幼い頃から終夜を知ってる。いつも優しく笑ってる子で、でも笑顔を切って張り付けている様な気がした。大人に酷いことを言われた時も、怪我をした時も、終夜は笑ってた。それが見てられなくて、終夜の傷を治療したことがあったの。そしたら終夜、凄く驚いてて、その後ありがとうって少し悲しそうに笑ったんだ。その時、本当に心から笑ってくれたんだって思ったの。きっとこの子は、自分の感情を言葉や態度に出す事が苦手なんだと思った。いつもなんてことない顔して笑って、傷ついてない風に見せてるだけだって」

 そう話す日奈の顔は、酷く穏やかだ。胸に手を当てて大きく息を吸って目を閉じた。深く息を吐き捨てた後、薄く笑う。きっと今、日奈の中では幼い終夜が息をしている。

「それから話すようになって、年が近かったから旭と終夜とよく三人で遊んだの。でも、だんだん大人になっていって、終夜と旭は主郭の仕事を、私は稽古で忙しくなって、それから終夜はほとんど顔を見せなくなった。旭でさえ、終夜が何の仕事をしているのかよくわかってないみたいで、そのころから終夜の悪い噂は絶えなくなって、気付いたら〝吉原の厄災〟なんて酷い言葉で呼ばれてた」

 明依は気の利いた言葉一つ見つからなかった。手の色が変わるほど強く拳を握った日奈の言葉の続きをただ待つことしかできない。

「みんな本心では、終夜が宵兄さんに罪を擦り付けているんだと思っている事くらい、私にもわかる。旭は、終夜がそんな酷い言葉で呼ばれるような人じゃないって信じてた。私の中の幼い頃の記憶も、旭と同じことを言ってる。……ほんと、嫌になっちゃうね」

 そういって日奈は困った様に笑って、頭を抱えた。
 日奈は宵の事も終夜の事も信じていた。

 終夜は大嫌いだ。
 性悪で、残酷で、優しい日奈にこんな顔をさせる。

 きっと日奈は、心細くて堪らないだろう。今もまだ、終夜を見捨てられないんだろう。本当に、大嫌いだ。

 主郭の地下で見た事を、全て素直に話そう。あれだけ無茶をした事を日奈に知られる事を恐れていたくせに、今ではそんな事よりも、これ以上苦しむ日奈を見ている事が耐えられなかった。どう伝えたらいい。日奈をなるべく傷つけないようにするには、どうしたらいい。

 そもそも、もし言ったとして日奈は納得してくれるだろうか。いたずらに傷つけて、さらに葛藤する事になるだけなんじゃないだろうか。

 いや、遅かれ早かれ日奈は真実を知ることになるんだ。言え。この目で見た終夜という人物が、どんな人間だったのか。日奈は、怖いならずっと手を握っていてあげると言ってくれた。日奈が許してくれるなら、乗り越えられるまで手を握って傍にいて、一緒に泣けばいい。言え、さっさと言え。

「あの光景を間近で見たみんなが、終夜の事を疑うのは当然だと思ってる。だからこれは、私の問題。もう気にしないで」
「あのね日奈、私、」

 強がって笑う日奈を見て決心した明依は、口を開いた。しかし結局、口を噤んだ。

 日奈は、懐かしむように目を細めて、漏らさない様に噛みしめる様に目を閉じている。
 その様子だけで、日奈が今思い返しているであろう思い出が、どれだけ美しいものなのかを感じ取ることが出来る。

 できる事ならその思い出に一瞬だけでも触れてみたいと本気で思うくらいには。

 きっと日奈の心の内にあるその思い出は、吉原の暗い夜を生きる糧だ。きっと理由をかき集めて、必死で守ろうとしているんだろう。
 目を覚ましてほしいなんて思っておいて、その思い出に泥を塗ろうとしている事が無粋で仕方ない気がした。

「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」

 この中途半端な選択の正誤を、これから先も精査し続ける事は分かっていた。
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