造花街・吉原の陰謀

3:「本当の〝造花街・吉原〟へようこそ」

「それならやっぱり〝何も与えなかったくせに私から大切なものを奪っていく。神様なんかいない〟とか、悲劇のヒロイン顔負けに酔いしれてた?」

 何も答えない答える事が出来ない明依を、終夜は余裕たっぷりの笑みを浮かべて見つめていた。それに対して、本当にこの男は腹が立つ、なんて毒突く余裕は今の明依にはなかった。何も言えるはずがない。日奈が死んだとき、終夜が言った事と全く同じことを思った。そして今も、同じことを思っているんだから。

「断言するよ。アンタはこの汚れた造花街の中で、指折りの幸せ者だ。俺はこの街で、アンタ程恵まれた人間は見たことがない」
「……どうして、そう思うの」

 自分で発しておいて随分と弱気で、吐いたことを後悔する程みっともない声色だった。
 人の人生の全てを知ったような口で語って何様のつもりなんだろうか、という気持ちが芽生えなかった訳じゃない。〝不幸〟という言葉を、終夜は真正面から否定した。それなら理由を聞いてみたいと思ったのは、好奇心から来るものではない事は確かだ。もっと汚くて、縋る様な何か。

「理由なんて腐る程あるよ。アンタを受け入れたのは吉原指折りの大見世の妓楼。そこの楼主に気にかけて貰えて、大夫の世話役に任命されて、客を取る座敷を貰って、心を許せる友が出来た。これだけでも他の遊女からしたら、妬ましくて堪らないはずだ。俺達の目を掻い潜って、吉原から正式に認識されていない小見世とも呼べない店で安い金で買われ、一日に何人も相手させられる遊女もいるんだよ」

 言われてみれば確かにそうだ。それ以外の言葉は浮かんでこなかった。実際、明依は野分(のわき)に連れられて吉原の妓楼を渡り歩いた時、どこの楼主も芸事の一つもまともにできない15歳の女にいい顔をしなかった。宵だけだったのだ。受け入れてくれたのは。だから感謝し、努力は惜しまないと誓っていた。
 しかし心の奥底では宵への感謝を上回って、〝ほかの楼主に受け入れてもらえなかった可哀想な私〟と、悲劇のヒロインを気取っていたのだ。失ったものを数える事に必死になって。

「もっと言うなら、ここにいる人間にとって親を亡くしたなんて当たり前。親の顔を知らない子ども、親の愛を知らない子ども、戸籍を持たない子どももいる。そもそも、吉原に売られる事を前提に生まれた子どもだっているんだ。アンタは親に愛された記憶を持っている。無条件で承認され、愛された。その事実は本来遊女にとって、何より暗い夜を照らす明かりになるべきだ。大げさに聞こえる?だったらアンタ、やっぱり恵まれてるよ」
「私が辛いと思っていることが、気に食わないって言いたいの?」

 明依は強気を装ってそう言った後、俯いて下唇を強く噛んだ。終夜のいう事は間違いなく正論だった。どれだけ周りを見ていなかったのか、今の今まで自分が本気で不幸な人間だと考えていた事が恥ずかしくなる程に。自分がどれだけ恵まれた環境にいるのかをこうも端的に説明されてしまえば、強がる以外の選択肢は明依になかった。
 一体自分は今、何を守っているのだろう。こんなに必死になって。

「そうだね。気に食わないのかも。感情の尺度なんて人それぞれだって事を差し引いても、気に入らない。アンタさ、悲劇のヒロイン気取るのに必死で、自分がなんでそんなに苦しいのか少しも考えた事ないでしょ」

 明依は静かに終夜を睨んだが、彼の感情のない表情をみて目を逸らした。自分がみっともなく思えて仕方がなかった。

「勘違いするなって言いたいんだよ。上から下へ、降下するから苦しい。親から愛されていたから、愛されない事が苦しい。心許せる友がいたから、いなくなったことが悲しい。贅沢な事だよ、本当に」

 そういう終夜に明依を責める様子は何一つ感じられなかった。その代わりに込められた溢れ出んばかりの哀れみに、より一層首を絞められている様な気がした。

「知らなかっただけで、アンタが今持っている感情が吉原では普通なんだ。朝起きれば今日一日が始まることに絶望する。夜になれば、明日が苦痛で眠れない。この街の遊女は、最初から希望なんて持っていない。でも、アンタのもともとの甘ったれた考えだけが悪い訳じゃない。環境がそれを助長した。旭も日奈もアンタの事を友として優先して考えていたし、もしかすると清澄なんかは、死んだ顔した遊女達の中で素直に笑うアンタを見て、無意識に浮き出た罪悪感を拭おうと縋っていたのかもね。宵に関しては、もう説明いらないでしょ」

 そういって終夜は鼻で笑った。この男はどうやら、本当に宵の事がどこまでも気に入らないらしい。

「それで、何。悲劇のヒロインを気取っていた遊女が堕ちていく様子が見たいの?」
「そんな趣味の悪い事しないよ。ただ疑問に思ってさァ。……そうやって甘やかされて守られて、一体アンタには何が残るんだろうね」

 疑問といいながらも、問いかけるよりも断定するような言い方。明依の考えを聞いている様子は全く見られなかった。

「そしていつか、一人じゃ立ち上がれなくなる。そういうのを、依存っていうんだよ」
「何が言いたいの。回りくどい言い方しないで、もっとわかりやすく言って」
「警告してるんだよ。依存するタイプの毒は、派手で甘いって相場が決まってる。惑わされて、気付いた時には堕ちるところまで堕ちてる。賭けてもいい。アンタは間違いなく依存するタイプだ。そして自分の事が嫌いになって、許せなくなる。そして最後は」

 中途半端に言葉を区切った終夜の意図を察した明依は、力いっぱい彼を睨んだ。

「私は、死ぬ気なんてない。だから毒だって分かってて毒なんて飲まない」
「毒を飲むのが自殺志願者だけの甘い世の中なら、非合法薬物は存在しない」

 食い気味に明依の言葉を遮った終夜に思わず息を呑む。この期に及んでまだ、この男の発言で確かにと納得させられる事が悔しかった。

「そして、この街は存在していないんだよ。吉原が本当に掴んで離したくないのは、外国人観光客じゃない。日々仕事と情報過多によるストレスに追われて本当の自分が分からなくなった人間だ」

 そういうと終夜は、街を指さした。明依がそちらに視線を向けると、代り映えしない景色。暖色に照らされて行きかう人々と、手招きする梅ノ位の女たちがいた。

「この街の表側はさ、老若男女誰でも等しく楽しめる様に設計されている。それなのに圧倒的な割合を占めるのは男性客。それも、30代以降のビジネスパーソン。女性の社会進出を果たしたことで上昇した離婚率がいい例だよ。それに、SNSの普及で他者との関係性は幅広い分希薄になった事による孤独感。だけど、そんな人間に限って〝忙しい〟なんてもっともらしい理由をつけて何もしないんだよ。裏側に引きずり込まれれば、後は堕ちていくだけ」

 終夜は太ももに肘をついて呆れたように笑った。

「一体どれだけの人間が、〝俺を認めてくれない人間が悪いんだ〟なんて戯言吐きながら、甘い毒を飲んでるんだろうね。人間関係の構築を面倒事と捨て置いた自分を棚に上げて」

 明依にも思いあたる節があった。いつ終わるのかわからない客の愚痴を聞く事なんて、別に何とも思わなくなるくらいには慣れてしまった。そして、好きだの愛しているだのと言わせたがる。もうこの街が恐ろしいなんて一言では片付かない程汚れた街であることを理解した。
 本当に自分はこれまで幸運だったのだ。もし最初から何も持たないままであれば客の戯言に酔いしれて、〝私ならこの人を大切にできるのに〟なんて思っていたかもしれない。そして気持ちのやり場を求めて客を好きになれば、共依存の出来上がりだ。

「吉原という街は、現代社会にそって作られた。射幸心(しゃこうしん)を煽るギャンブルよりも依存性の高い、承認欲求に訴えかける。よくできてるだろ」
「そうやって客と遊女を共依存に追いやって、金を巻き上げてるの?」
「別にこっちも意図してやっている訳じゃないよ。ただ、そうなるのはごく当たり前の事だと思わない?それがこの街の普通。遊女は本来、そうやって心の拠り所を見つけて生きている」
「私は別に、心の拠り所なんていらない」
「人間は弱い生き物だよ。誰かに触れてもらわないと、自分の形が見えない」

 強がる明依にそういった終夜の声は、まるで心の隙間に漏れ入っていると錯覚するほど優しかった。

「人間って面白いよね。自分の心ひとつで目に見える世界が、感じ方が本当に変わってくる。だから頑張ってね」

 しかし次にはもう、いつもの調子で挑発するような楽しそうな声で笑っていた。

「ここから先が浮世の地獄。本当の〝造花街・吉原〟へようこそ。歓迎するよ、黎明」

 終夜は否定したが、明依には終夜が恵まれていた遊女が堕ちる様を楽しんでいるようにしか思えなかった。もしくは、堕ちた先でどんな行動をとるのか気になっているのだろうか。この男ならどんなに酷い理由だろうとあり得る気がしている。やはりどうしようもなく、嫌いだ。

「消えて」

 明依は終夜に冷たい視線を向けてそう言い放った。

「言ったでしょ。アンタの思い通りになんて、絶対なってあげないって。わかったなら、さっさと私の前から消えて。アンタと仲良くする気も、これ以上おしゃべりする気もないから」

 これは精一杯の強がりだった。終夜の言う通り、既に明依の目に映る吉原は以前の面影を残してはいなかった。絶望という言葉以外表しようのないこの感情の最中、強がっていられる理由はただ一つ。この男が心底嫌いだという事実だけだった。

「相変わらず嫌われてるなァ。でも俺は、アンタの事嫌いじゃないよ」

 嫌いじゃないのによくもここまで真正面から正論を叩きつけて挑発出来たものだ。そう思う明依をよそに、終夜は薄ら笑いを崩さない。

「宵兄さんにした事、忘れた訳じゃないでしょ」
「勿論」
「だったら、さっさと消えて」
「俺がいなくなって寂しくない?また一人ぼっちになっちゃうよ」
「アンタに心配される筋合いないから」

 明依の返事を聞いた終夜は、気だるげに立ち上がった。

「バイバイ。またね」

 明依に背を向けて歩いた終夜は、軽々と屋根の上から飛び降りた。それを視界の端で確認した後、明依は大きく一つ溜息をついて街を見下ろした。
 前を向かなければいけない。依存なんてしない。辛くても一人で生きていかないといけない。終夜に挑発された心はそう決心するのに、すぐにでも、だって、と言い訳が溢れてくる。何度も経路を変えてたどり着く結論は、結論ではなかった。
 間違いなくこの街で指折りの幸せ者だった。という、過去に雁字搦めにされた回答だった。
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