造花街・吉原の陰謀

9:静まった嵐の後

「終夜!!」

 怒号にも似た声が廊下に響く。終夜はピタリと動きを止めた後、一呼吸おいて心底面倒くさそうに舌打ちをした。

「何しに来たんですか。勝山大夫」

 声の主に視線を移すと、腰に手に当てて終夜を睨む勝山がいた。

「あっちこっちに喧嘩吹っ掛けるんじゃないよ」
「関係ない話です。部外者は黙っていてくださいよ」
「大ありだね。アンタにやらかされると、裏側での丹楓屋の評判が下がるんだよ。必死こいて評判を上げようとしているウチの遊女の邪魔するんじゃないよ」
「妓楼の評判一つ下がったところで、遊女には何の影響もない。寧ろ楽になるじゃないですか。嫌々抱かれる必要もない訳だし」

 いつもの様に飄々と言ってのける終夜に大股で近寄った勝山は、終夜の胸ぐらを掴んで引き寄せた。

「誰に向かって言ってんだい。身体一つ売った事もないヤツが、知った口聞くんじゃないよ」
「誰に向かって、はこっちの台詞(せりふ)だ。アンタの方こそ俺の仕事の事も、この状況の事も何一つ知らないだろ」
「知らない所か興味もないね。ただ、宵に何をしようとしていたのかはわかる。……宵。アンタはもう仕舞(しま)いで構わないね」
「……構いません」

 宵は息を吐いた後、まだ暗い雰囲気の残る口調で一言呟いた。勝山は宵から視線を終夜へと移すと、さらに引き寄せた。

「妓楼ってのは、遊女と客が一晩夫婦ごっこに興じる為の場所さ。野郎同士の喧嘩なんて一銭にもなりゃしないんだよ。どうしても宵に喧嘩吹っ掛けたきゃ他所(よそ)でやんな」

 終夜は色のない表情で勝山を見た後、俯いて溜息を一つ吐いた。

「俺、繊細な年齢なんですよ?公開説教なんて勘弁してほしいな」
「公開説教ごときで変わる様なタマなら、今よりは幾分かマシだっただろうよ」

 勝山は終夜の着物から手を離すと、腰に手を当てた。頭を上げた終夜の顔には、いつもの張り付けた笑顔があった。

「酷いな。手放しで褒めてほしいくらいですよ。一理あるって思ったから、素直に引いたのに」

 相手が勝山とはいえ、まさかあの終夜が言い負けるとは思っていなかった。終夜が他人の言葉を聞き入れている様子を、明依は信じられない気持ちで見ていた。終夜は袖に変色した手首をさっと隠して宵に向き直ると、薄く笑った。

「残念だよ。本当に」

 そう告げると、終夜は勝山大夫の隣を通って去っていった。嵐が去ったこの場は、静寂に包まれていた。

「いい男が台無しだね、宵。守ろうとした女に怖がられているんじゃ世話ないよ」

 宵ははっと息を呑んで明依を見た。明依は思わず身体に力を入れたが、悲痛な面持ちで眉を潜めた後に顔ごと視線を逸らす宵に釣られて、身体中の力を抜いた。突如として襲ってくる倦怠感に小さく息をついた。

「ありがとう明依、宵さん」

 重たい二人の空気を裂いて、吉野は二人に笑いかけた。

「勝山大夫も」
「別にアンタの為にやったんじゃない。あの馬鹿がいろんなところで暴れまわるから、目を付けていただけさ」
「それでも、言いたかったの」

 ぶっきらぼうにそういう勝山に、吉野はにこりと笑いかけた。それを見た勝山はふんと鼻を鳴らして笑った。

「そんな事より吉野。身請け話は無期限の延期だって話じゃないか。泣きたきゃ胸くらい貸してやろうか?」

 勝山は茶化すような口調でそう言いながら胸を張り、トントンと胸元を叩いた。恵まれた勝山の胸は、相変わらず着物から大きくはみ出している。

「あら、本当にいいの?じゃあ遠慮なく」

 吉野はそういうと勝山の元に歩み寄り、その胸に頬を寄せた。

「……私」

 吉野はそう呟いて、黙った。いくら吉野でも今回の事は相当堪えたのだろう。世話役としてずっと側にいたつもりだったが、立場上からなのか吉野の弱い部分を見たことはなかった。だから勝山には心を許せることに安堵していると同時に、少し寂しくもあった。だからこそ、そんな吉野に何と声をかけていいのか見当もつかなかった。

「一度でいいからこういうのやってみたかったのよ!」

 吉野の言葉が予想外だったのは、どうやら明依だけではない様だ。勝山もぽかんとした顔をしている。

「ほら、修学旅行でお互いの胸を触りあったりとかするんでしょう?」
「アンタの修学旅行のイメージはどうなってんだい」
「それって女の子って感じがしない?妓楼も女性だらけの場所だけれど、ライバルでもあるし少し殺伐としているっていうか」

 てっきり泣いているのかと思ったが、キラキラした目をしている吉野を見て気が抜け切ってしまった。強がってのものなのか、素の表情なのかわからない所はさすがと言うべきなのか。それがおっとりとした中にも芯がある〝吉野大夫〟という人物の大きな魅力でもあった。

「……心配して損した気分だよ」

 勝山はそう言いながら、自分の胸に頬を寄せる吉野を見下ろした。

「嬉しいわ。心配してくれたのね」
「どうせ深く落ち込みはしないだろうとは思ってたさ。しかしまァ、ここまでとは思ってなかったって話だよ」

 そう言うと勝山は大きく一つ溜息をついた。
 吉原の街に4人しかいない大夫の内の二人が今ここにいて、会話していて、挙句の果てにくっつき合っている様子など今後絶対に見られない。〝造花街・吉原〟という表面上に大して興味のない明依でさえ、とんでもないコラボレーションに歓喜していた。凪くらいのオタクなら卒倒(そっとう)ものだろう。
 吉野は名残惜しそうに頬を離すと、勝山の胸元に触れていた方の頬を手のひらで包んだ。

「また胸を貸してちょうだいね、勝山大夫」

 吉野の天真なその様子に、勝山はまた一つ大きく溜息をついた。それから明依に向き直った。

「それにしても黎明。前にウチに来た時から肝が据わって負けん気も強い、おまけに怖いもの知らずなヤツだとは思っていたけど、拍車がかかってるね」

 人の事を制御の利かないゴリラみたいに言うのはやめてほしい。勘違いしているのなら、今すぐに修正しなければいけないと本気で思った。

「私はあの男にだけです!!」
「急にデカい声出すんじゃないよ。悪くなかったって言ってんのさ。終夜相手にあそこまで言ってのける遊女はいないよ」

 〝吉原の厄災〟と呼ばれ恐れられる男を言い負かした自分を棚に上げて、勝山はそういった。

「黎明。アンタは温室で大切に育てられて花を咲かすタイプじゃないね」
「どういう事ですか?」
「アンタは典型的な雑草タイプ。たまに降る雨水で充分。嘘だと思うなら、自分の顔を鏡でよーく見てみな」

 そう言うと勝山は明依にぐっと顔を近づけて、目の前で指さした。

「〝私はガサツです〟って顔に書いてある」

 明依は「……雑草、ガサツ」と勝山の言葉を繰り返した。しかし何度繰り返しても悪口以外の何物でもない。どうしてこのタイミングでそんな低レベルな悪口持ち込んできたの、という疑問で余す事なく脳内を埋め尽くした後で縋る様に吉野を見たが、彼女は綺麗な顔をして微笑みながら明依を見ていた。
 本当にいいの?自分が育てたも同然の遊女が、雑草だのガサツだの悪口言われてるんだよ?という視線を一身に受けても、吉野は笑顔を絶やさない。確かに吉野や日奈を植物に例えるなら、高貴で美しく誰もが見惚れる花だろう。それに比べると自分自身が劣っている事に気付かない程鈍感じゃない。それにしても、だ。

「言い過ぎじゃない?」
「何卑屈になってんだい。褒めてんだよ」
「どこがですか?私が一方的に打ちのめされて、ストレス発散に利用されただけのような気がするんですが」
「褒めて伸びるタイプじゃないって事さ。いいかい黎明。雑草は強い!」

 勝山はドヤ顔でそういってのける。明依は〝何言ってんだお前〟と言いたい気持ちの全てを顔だけで表現したが、おそらく納得した様に頷いている勝山には何一つ通じていない。

「意味が分かりません」
「わからないヤツだねェ。〝生きる〟という一見無意味な行為において、これほど大切なことはないよ」

 そう言い残すと、勝山は明依の頭をポンポンと力強く叩いた後、踵を返した。
 丹楓屋で終夜を招いた座敷から勝山の花魁道中を見た時にも全く同じことを思ったが、勝山と関わると勇気をもらえる。明依は勝山の背中を見ながら、彼女に触れられた自分の頭に触れた。

「勝山大夫」

 引き止める宵の声に勝山は顔だけを彼に向けたが、真剣な彼の様子を察したのか身体ごと向き直った。

「目が覚めました。妓楼の中で起こった不祥事を処理できない所か、一緒になって事を大きくしかけました。それを別の妓楼の大夫に止めていただくなんて、楼主として本当に情けない」

 宵はそう言うと、勝山に向かって深々と頭を下げた。

「申し訳ありません」

 勝山は少し間を空けた後、頭を下げる宵の目の前に移動した。

「宵」
「はい」
「いい男が台無しだなんて言って悪かった。撤回する」
「……俺は、」
「キレてもやっぱりいい男だね」
「……はい?」

 頭を上げた宵は、きょとんとした顔で勝山を見ていた。

「でも私は、穏やかなアンタの方がタイプだ。礼も謝罪もいらないよ。その代わりどうだい?私と一晩」

 そういった勝山は宵の肩に腕を回して引き寄せると、〝一晩〟という意味なのだろうか人差し指を一本立てて宵との距離を縮めた。

「……いや、」
「アンタは何もしなくていい」
「あの、」
「私が天国でも地獄でも連れて行ってやるよ」

 いつもの宵なら淡々と、しかし穏やかな様子を崩さずに断っているはずだ。しかし意表を突かれた今の宵にはそうもいかないらしい。本気で困った顔をしている。
 明依と吉野は目の前で繰り広げられるその様子に顔を見合わせて笑った。明依同様にきっと吉野も、宵は美人な女性観光客からも押し切られたことはない。という満月屋で夜桜をした時の話を思い出したに違いない。

「いえ……大丈夫です、現世で」

 吉野は宵が放った言葉に噴き出した後、俯いて肩を震わせていた。困りながらも真剣な口調でいう宵の『大丈夫です、現世で』という言葉が脳内で繰り返されてじわじわ効いてきた来た明依は、笑いを必死にこらえようと肩を震わせた。
 段々と本調子に戻ってきた宵と勝山のやり取りは、押し問答の末になかったことになった。最後の最後はさすがに天下の勝山大夫。「いつか必ず抱いてやる」という捨て台詞を宵に残して、丹楓屋に帰って行った。

 明依と宵と吉野。三人だけが残された場の雰囲気は、和やかとは決して言い難いが重苦しくもない程度には改善されていた。

「吉野大夫。俺はあなたの力になりたい。だから、答えてください」
「はい。私に答えられることなら、何でも」
「終夜に弱みを握られていたり、誰かを人質に取られていたり、今回の件を拒絶する事で終夜相手に不利になるような事は、本当に何もないんですか?」
「はい、何もありません」
「主郭の重役たちも、終夜の言動を怪しんでいます。いくら裏の頭領の許可があると言っても、事情を説明すれば力になってくれるはずだ。俺はあなたに幸せになってほしい。俺の考えは押しつけがましいですか」
「いいえ。こんなに温かい言葉をかけてくれる人がいる。自分が信じて歩いてきた道が間違いではなかった事に安心していると同時に、誇りに思います。でも、ごめんなさいね宵さん」

 もしも吉野が宵の言う通り脅されていたり弱みを握られているのだとしても、それを見抜く術を明依自身が持っていない事は分かっていた。明依同様、宵も黙って吉野の言葉の続きを待っていた。

「自分の幸せくらいは、自分で決めます。それが吉原の中だろうと外だろうと、私にとっては同じ事。私は吉原にいられて幸せです」

 自分が幸せだと言える人間が、この街に一体どれだけいるだろう。今まで考えたこともなかった。自分自身が誰よりも恵まれていたから。だから今、〝吉野大夫〟という人物の穏やかさの裏に潜む覚悟や努力の程を考えるだけで、見えていたはずのその背中さえも見失ってしまいそうな気がした。それ程に彼女の存在は遠いのに、圧倒的な存在感に対する憧れは何一つ変わらなかった。

「わかりました。何かあれば、相談してください」

 宵は少し考えた後、吉野にそういった。こうなった吉野は絶対に譲らないと分かってるだろう。
 終夜のいう事もわからなくはない。冷静になって考えてみれば、身内の様に側にいて吉野はそんなことをする人間じゃないから、吉原の外に出しても大丈夫だろう。と判断できるのだ。
 しかし、だから終夜の言葉を信用するのかと言われれば別の話だ。もしも全く同じ内容でも、前任の旭から言われればまた反応は違ってくるのだろう。あの男だから、何か裏があるのかもしれない、ただの嫌がらせなのかもしれないなんて意地の悪い事を考えてしまう。

「明依は嬉しいと思ってくれないの?私がまだ吉原にいられる事」

 明依は驚きのあまり声が出なかった。終夜から身請けの延期を聞いた時、安堵した。少しでも現状が変わらない事が嬉しかったから。

「明依なら喜んでくれると思っていたのよ」
「不謹慎だと思いました。こんなことを思うのは。だから、隠そうとしました」
「あら、どうして?あなたにまだ一緒にいたいと言われて、私が不謹慎だって怒ると思った?」

 吉野はそう問いかけたが、優しく笑っている。きっと最初から、吉野に隠し事をしようだなんて無理な話だったのだ。

「本当は凄く、嬉しかったです」
「明依、私もよ。まだあなたと一緒にいられて嬉しい。今まで以上にたくさん話がしたいわね」

 吉野が本当は強がっているのか、それとも本心からそう思っているのかはわからないが、吉野と一緒にいられる時間が伸びた事に違いはなかった。素直になれば簡単なことだ。吉野の側にいられることは嬉しい。

「それじゃあ、私はこれで」

 吉野は軽い口調でそう言うと、悠々と廊下を歩いて行った。明依と宵の二人を置き去りにして。
 二人だけの空間には、痛いほどの沈黙が流れている。明依は宵にどんな言葉をかけていいのかわからなかった。昨日の出来事から一夜明けて、どんな距離感で接していいのかすら見当がつかないというのに。

「勝山大夫、惜しかったね。今日こそ宵兄さんの押し負ける所が見られるかなって、少し期待してたんだけど」

 結局、じゃあ私もこれでさようなら、なんて都合のいい言葉を吐くことは出来ず、いつも通りの距離感で宵に話を振った。宵は一瞬視線を揺らして動揺を見せたが、すぐに困り笑顔を浮かべた。

「〝天国でも地獄でも連れて行ってやる〟なんて誘われ方をしたのは初めてだよ」

 その言葉に、胸の内がズキンと痛んだ。宵が女性に言い寄られる事なんて珍しい事ではないし、実際に何度も声を掛けられている所を見ている。だから理由なんてよくわからない。ただ強いて言うのなら、〝誘われ方〟という表現に男女の仲を連想したのかもしれない。
 年齢的にも経験があって当たり前だし、このスペックで経験がないなんて逆に怖い。それが一体どうして嫌なのか。これ以上自分の気持ちを精査しようという気には到底なれなかった。終夜の想像する未来に、片足を突っ込む事と同じだと思ったから。

「勝山大夫の言う通り。結果的に、明依を怖がらせることになってしまった。ごめんね。……もう行くよ」
「宵兄さん、私ね……!」

 背を向けて歩く宵に向かって、明依は少し声を張った。宵は立ち止まって、少し離れた距離から明依の顔を見た。

「わかってるから!ちゃんと。宵兄さんが私を守ろうとしてくれた事くらい。ちゃんと、わかってるから。だから、ありがとう」
「……こちらこそありがとう、明依」

 宵は穏やかな顔でそう笑った後、踵を返した。
 確かにあの一瞬、宵の事を怖いと感じた。しかし今の宵に対して、そう思っていない。ただただ、小さな疑問が無造作に浮かんでいた。

 妓楼の楼主は、主郭の人間とは違う。吉原には主郭という絶対に逆らえない組織があって、各妓楼はその指示によって動く。楼主とはいわば、主郭と遊女の橋渡し役である。吉原の深い部分に関わっているとは言っても、吉原に対する知識や吉原内の行動の種類で言えば遊女寄りのはずだ。

 当然遊女は、他人を殺傷できる武器の所持は認められていない。宵が懐に忍ばせていたそれは、一体どこから入手したのか。そう疑問に思いながらも、その気になれば楼主なら武器くらい手に入れられるのかもしれない。そんな事を思っていた。

 宵を疑っているわけでも、現在宵に対して恐怖心があるわけでもない。ただ、心配だった。終夜が宵をよく思っていない事は誰が見てもわかる。もしも楼主が武器を持つ事は御法度なのだとして、それを理由に終夜が宵を。そんな最悪の事態にならないだろうかと。

 遠くなる宵の背中を、明依はただ見つめていた。
 宵との間にほんの少しの感じる距離が、気のせいでありますようにと思いながら。
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