造花街・吉原の陰謀

15:新たな一手

 明依は着物をきちんと着る事もせずに考え込んでいた。
 終夜が暮相という人間を語った時の様子は、意図的なのか自然と出たものなのか。こんな状況になってしまったのなら、気持ちの落としどころを見つけたかった。その責任の割合が一体互いにどれだけあるのか。そしてあわよくばその責任、過失とも言える大半を終夜に押し付けたいと思っている事は、この期に及んで否定しない。

「立てないなら、運んであげようか」

 立ち上がった終夜は、明依に手を差し出した。いつものあの、飄々とした態度で。先ほどまでの今にも消えてしまいそうな儚さは、一片たりとも残っていなかった。

 その態度が、不透明に見せていた霧を掻き消した気がした。年が近い終夜と普通の会話をしたことで、旭の事を思い出して距離感が狂ってしまったんだと思う。

 だから、一緒にいるなんて口走った。
 明確な理由なんてわからない。

 ただ、強いて言うのであれば無意識よりももっと深い所で、旭や日奈の様な〝友達〟という関係が欲しかったのだと思う。

 そしてあの瞬間、この例えようのない寂しさに寄り添ってくれると思った。旭と日奈が死んだ苦しみが終夜に理解できなくてもきっと、思い出はいつだって目が眩むほど綺麗なものだから。

 自分が嫌になる。今回も考えなしの行動が招いた結果で、そしてもう取返しが付かず、自分自身の首を絞める事になった。今回のこの流れは一体、どこからこの男の思惑通りだったのか。

「バカにしないで」
「あれ、もう戻っちゃったの?さっきまではあんなに優しくて、しおらしくて、よかったのに」

 何がよかった、だ。都合がよかった、の間違いでしょ。と明依は顔を逸らして、終夜が整えた着物が再び乱れる事も気にせずに、傍らに放り投げられていた帯を掴んで立ち上がると窓辺に移動した。

「外から見えちゃうよ」

 終夜は明依の腰に手を添えて明依の顔のすぐ横から手を伸ばすと、風の入り込む隙間を残して障子窓を閉めた。

 明依は振りほどきたい衝動をぐっとこらえて、深く深呼吸をした。悔しさや怒りでどうにかなってしまいそうだ。明依は帯を持っている手を強く強く握りしめた。

「アンタの心の内にある宵がいるポジションは、替えが利く」

 確かに感情は混ざり合って渦を巻いていたはずなのに、終夜の一言で強引に負の感情から〝思考〟へと脳内情報が書き換えられる。嫌という程、申し訳ないと思う程わかっているから、もうこれ以上、暴かないで。

 愛だの恋だの、そんなモノの定義なんて知らない。しかし旭に想いを寄せていた時、見返りを求めた事なんてなかった。旭が心から笑っていられるなら、幸せだと思っていてくれるなら、日奈を好きでいる事も受け入れられた。そんな感情を誰かに向ける事を純愛と仮定するなら、宵に向けている感情はその対極にある。

 離れようと動く明依を、終夜は強い力でその場にとどめた。

「二人だけの秘密でしょ。おとなしくしてた方がいいんじゃない?」
「アンタ本当に、最低」
「今回ばかりはさすがに、最低の自覚あるなァ」

 それは一体どういう意味なんだろう。この状況に意図して造った事なのだろうか。それとも、この脅している状況の事を言っているんだろうか。

「でも俺は今日、今、ここで、どんな手を使ってもアンタを誑かせたい」

 終夜は情欲の色を混ぜた声で耳元でそういうと、正面から明依を抱きしめた。

 どうしてここまで、この男は何も掴めないんだろう。飄々とした態度に戻ったかと思ったら、今度は甘い態度で奈落の底まで引きずり込もうとする。一体何が目的なのかわからない。

「どこからが、思い通りなの」
「ズルいなァ。だからちゃんと言ったのに。『アンタが自分で選んだんだよ』って」

 悔しさや怒りを通り越した後、ふつふつと沸き上がった虚無感に埋め尽くされる。首を絞め続けるのならもう、思考することさえやめてしまいたい。

「そんなに辛い?宵に見放されるのは」
「……辛いに決まってる。どうせアンタには、分からない」
「うん。わからない。理解は出来ないけど、俺がアンタの心の拠り所になってあげてもいいよ」

 明依はしばらく終夜の放った言葉の意味を考えた。それは一体どういう意味で、どういう意図があって、結論どうなってしまうのか。何一つわからないまま、処理できない情報は回り続けていた。

「必要なんでしょ?それなら、俺にしときなよ」
「なんで……。意味、わかんない」

 顔を上げると、終夜は綺麗な顔で笑っていた。本当に意味が分からない。どうしてここまでこの男に執着されるのか、分からない。

「本来、身体を重ねるだけの行為に〝愛してる〟なんて必要ない」

 反吐が出る程甘い雰囲気は、先ほど間違いなく終夜が終わらせた。どんな手を使っても誑かしたいと思っているのならどうして『やめる?』と問いかけて、選択肢を与えたんだろう。そもそもこの部屋に入った最初の時点で、等価交換だと押し切っていればよかったじゃないか。

「わからない事は、俺が全部教えてあげるよ。宵よりもっと上手に騙してあげるから」

 そしてどうしてまたこの甘い雰囲気に持ち込もうとするのか。確信じゃない。ほんの少しの違和感だった。もしかして、お前のせいでこうなったと言い訳をしたいのは、終夜も同じなんじゃないか。

「お互い様なんでしょ。責任を押し付けたいのは」

 明依の言葉に、終夜は目を見開いた。それは明らかに動揺している証で、明依は平然を装っては見たものの、驚いている事が表情に出ている自覚はあった。
 今、確かにある、終夜の核心に触れた感覚。

「何に、迷ってるの……?」

 自分で言っておいてどうして終夜が迷っているのか訳が分からなかった。
 終夜は少しの間、目を見開いたまま明依を見ていたが、表情を消して冷たい視線を明依に注いだ。

「やっぱり悪手だったね。さっさと堕としとけばよかった」

 そう言うと終夜は、舌打ちをして明依から離れた。

「本当、可愛げのない女」

 いまだに状況を理解していない明依をよそに障子窓を閉め切った終夜は、出入り口の襖に手をかけた。

「着物、着たら降りてきて」

 そういって襖を開けたまま部屋を出て階段を降りた終夜の背中を、明依は思考停止したまま見ていた。
 おそらく終夜は、性欲処理がしたかった訳でも、明依という存在が必要だった訳でもない。それなら一体、何がしたくて誑かす様な真似をしたのか。

 きっと考えてもわからない。わかってるのに、考える事をやめられない。

「あんまり遅いと、おいて行くよー」

 一階から少し声を張って聞こえた終夜の声に我に返った明依は、何を考えるより先に「わかってる」と焦って返事をした。あっという間に思考回路は閉ざされて、どうして終夜は平然としていられるのかという思考に切り替わってからは、苛立ちや焦りが見え隠れする。

 明依はため息を一つ吐き捨ててから着物を着直した。そして階段を降りて一階へ行くと、穏やかな笑顔を浮かべている老婆と、椅子に座っていた終夜が同時にこちらを向いた。

「来た来た。じゃあ、もう行くよ。おばあちゃん、ありがとね」
「いいんだよ。またいらっしゃいな。お嬢さんもね」
「はい。……また」

 どんな返事をしていいのかわからず、明依は曖昧な返事をしてペコリと頭を下げて終夜に続いて蕎麦屋を出た。会話はない。明依はただ、終夜の数歩後ろを歩いていた。

 本当にもう外に出て大丈夫なんだろうか。もう誤解は解けただろうか。考えれば考える程、心臓はうるさく音を立てた。

「清澄」

 終夜が発した聞きなれた名前に、明依はびくりと肩を浮かせた。清澄は二人に気が付くと、周りを警戒する素振りを見せて足早に歩いてきた。

「もう撤退の指示は出てるんでしょ?」
「ああ。ついさっきね。……明依ちゃん、無事でよかった」

 清澄は明依にそういった後、明依の返事を聞かずに終夜に向き直った。

「終夜くん。一体、どうしてこんな事を……。誤解を招く様な事はもう、やめた方がいい」

 そういった清澄は心配そうに終夜を見ているが、終夜は薄い笑顔を浮かべて何も言わないまま、真っ直ぐに清澄を見ていた。

 以前も終夜を気にかけるような発言をしていた。終夜は間違いなく吉原の危険分子だ。しかし双子の幽霊や晴朗の話から察するに、おそらくこの吉原の次代頭領となれる人材は、もう終夜以外いないのだろう。

 認めたくはないが、炎天から逃げている時に感じたあの、この男に任せておけば大丈夫だろうという確信を得ない安心感。

 終夜が嫌いな明依ですらそう思うのだ。本当に本当に認めたくはないが、それこそがこの男が持っている魅力というやつなのだろう。

「なんだかんだ言っても、主郭の人間は君に一目置いているんだ。これ以上目立たず騒がず、大人しくしていればきっと、悪い様にはならない」
「俺に関わる人間はよく死ぬ。関わり方は考えた方が、自分の為だよ。清澄」

 どこか挑発するような口調でそういう終夜に、清澄は俯いた後、悲し気な表情を浮かべた。

「終夜!!!」

 沈黙を引き裂いた声の主は、炎天だった。炎天は真っ直ぐ終夜に向かって走ってくると、勢いに任せて終夜の胸ぐらを掴んだ。

「お前!!明依の吉原での立場を地に落とす気か!!」
「落ち着け、炎天!」

 後から到着した叢雲が炎天をそう諫めるが、炎天は全く聞く耳を持たず終夜を力任せに引き寄せた。

「大層な人数出して探した結果この人を見つけて、それから誤解を解いて、この人を解放する。で、その後どうなるか。少し考えたらわかるだろ。吉原の人間はみーんな噂好きだ」

 終夜は炎天に胸ぐらを掴まれたまま、余裕じみた笑顔を浮かべてそういった。炎天、清澄、叢雲の三人は、はっと息を呑んだ。

「次の日からはきっと、〝本当は吉原から逃げ出そうとしたのに、主郭の人間と面識があったから見逃された、満月楼の黎明〟ってレッテルが貼られる事になる。だから事実確認をした後で、撤収の指示が出るのを待ってた」

 そういうと終夜は、自分の胸ぐらを掴んでいる炎天の手首を握って引き離した。

「そっくりそのままお返しするよ。黎明の吉原での立場を地に落とす気?少しは頭、使いなよ」
「終夜、お前……!」
「だからアンタの選択は大正解。まァ、何を基準に判断するかって話だけど」

 炎天の言葉を遮った終夜は、明依に向かってほほ笑んだ。それからすぐに炎天に向き直った。

「ただ、大事にした事実は謝るよ。だけどこれは契約みたいなモンでね。大目に見てよ」

 終夜の言う契約とは、明依に貴重な情報源だと言った事だろうか。もしそうなら、大袈裟すぎる表現だ。なんにせよ、本当にどこまで頭の回る男なんだと、改めて終夜への恐怖心が胸の内で揺らいでいた。
 その場を去ろうと歩き出したが終夜だったが、「あ、そうそう」と言って振り返った。

「楽しみにしてるよ。次はどんな方法で邪魔してくるのか。ちなみに俺はもう、次の手は打ってある。この一手は結構自信あるなァ。きっとどう転んでも深く刺さってくる」

 眉間に皺を寄せる叢雲と炎天。訳の分からないという表情を浮かべる清澄をよそに、終夜は目を細めて明依に笑いかけた。その〝一手〟とは一体何なのか。明依は、どこか満足気な表情を浮かべて踵を返して歩き出した終夜の背中を見ながら、例え様のない嫌悪感の様なものを抱えていた。
 4人の残されたこの場には、重たい空気が流れている。叢雲は大きなため息を一つ吐き捨てた。

「黎明。宵から話は聞いたか」
「……いえ、何も」

 明依が少し考えてそう答えると、叢雲は俯いて先ほどよりもさらに大きなため息をついた。
 一体何の話だというのか。明依は皆目見当もつかず炎天と叢雲を見たが、二人は険しい顔をしている。清澄については、その言葉の意味を分かっていない様子だった。

「おい叢雲、やめておこう。ここは宵に任せて、」
「宵に任せた結果がこれだ。もっと早く話していれば、自覚をもって行動していれば、こんな事にはならなかったかもしれない」
「しかし、」
「次こんな事になればもう、取り返しがつかない。これ以上は待てない」

 叢雲はそう言うと、炎天はめずらしく押し黙った。叢雲は細く息を吐いた後、睨むように明依を見た。

「黎明、協力してくれ。お前を松ノ位に推薦したい」
「明依ちゃんを松ノ位に……?どうして、急に」

 清澄は驚きを隠せない様子で、叢雲の顔を見た。
 先ほど、蕎麦屋の二階で終夜と話した事を、明依は思い出していた。〝今まで通りおとなしくしていれば〟というのは、一体どういう意味なのか。松ノ位になろうとすることが、〝今まで通りおとなしく〟に入るとは到底思えなかった。

「終夜を次期頭領にしない為だ。満月楼から3人目の松ノ位を出す。そして宵を頭領に推薦する」
「できません」

 叢雲の言葉をよく噛み砕くこともせずに、明依はそう呟いた。
 明依の頭の中には今、どうやって諦めてもらうかという事しかなかった。次期頭領に一番近い人間が終夜という事は知っている。

 そしてどれだけ危険な人間かも知っている。しかし、あの男はとにかく頭がいい。双子の幽霊は終夜を〝陰の最高傑作〟だと言っていた。吉原の厄災と呼ばれるくらい圧倒的な力を持っているのだ。頭領となって然るべき人間だろう。どうしてわざわざ、宵を頭領にするなんて発想になるんだ、と明依は自分の中で叢雲の意見に対して反発できうる限りの情報をかき集めていた。

「……私にはできません。松ノ位には、なれない」

 明依は唖然としている叢雲と炎天から視線を逸らした。5年前、初めて野分と吉原に来た時に快く受け入れてくれた宵を思い出し、明依は涙が出そうになるのを堪えて眉間に皺を寄せた。

 終夜なら言葉巧みに事実を誇張して吹聴することも、あの場にいた主郭の人間を特定して嘘を吹き込む事も、必要とあらば朝飯前と言わんばかりにやってのけるだろう。宵はどう思うだろうか。

 受け入れた遊女が、特別気にかけてきた遊女が、〝好き〟だと平然と(うそぶ)いておいて、挙句の果てに拒絶した女が、対敵しているとも言える男と見せかけとはいえ男女の仲になりかけた事実を。

 少なくとももし明依が宵の立場ならば、万が一状況を理解したとしても心の内では裏切りという言葉が過る事だろう。

 大夫になることが出来なくても、真っ直ぐに前を見据えて生きていくことはできる。雪の道標くらいにはなれるだろう。だから、絶対に知られたくない。もしも宵に嫌われてしまったら、これから先この街でどうやって生きて行ったらいい。

「本気で……本心でそう、言っているのか?」

 叢雲は絞り出すような低い声でそう言った。おそらく今にも明依に掴みかかって事情を説明させたい所だろう。

 松ノ位になりたくないはずがない。いつだって、吉野大夫という圧倒的な存在に憧れた。その存在を今、どれだけ遠くに感じていたって、その憧れと輝きは少しも衰える事を知らない。
 しかしここで諦めてくれるなら、その程度の思いだったのかと、鼻で笑われても構わないとすら思った。

「この子にはこの子の意思がある。少し考える時間を、」
「明依。このままだと、宵は死ぬかもしれない」

 清澄の言葉を遮った炎天の言葉に、明依は息を呑んだ。

「……なんで」
「あの他人に無関心な終夜が、宵に酷く執着している。だからこそ、満月楼を自分の管轄下に置いた。そして、今まで興味のなかったと思っていた頭領の座にまで興味を示している。もうわかっていると思うが、吉原は犯罪者の巣窟。それぞれがバラバラの方向を向かない様に、〝裏の頭領〟という一人の人間に選択のほぼ全てを委ねている。終夜がその座に就けば、吉原は終夜のものになる。そうなった先の想像は、大して難しくない」

 『みんなが大好きな頭領の許可を取って来た。本当にこの街は、頭領がいないと決め事一つ出来ないんだから困りものだよ。早く世代が代わればいいのになァ』と、以前満月屋で言った終夜の言葉が、明依の頭をよぎった。その時終夜は確かに、宵に強く手を掴まれて好戦的な態度を見せていた。

「頭領の座に終夜以外の人間を就かせる以外に方法がない。もう宵以外にいないんだ」

 ほらやっぱり。丹楓屋の座敷で思った通りだ。あの男と共有する秘密は、枷だった。終夜の言う〝一手〟が、この見えない首枷の事だとは、到底想像もできなかった。どこまで行っても、どこまで逃げても、あの男の手のひらから、抜け出せない。

 炎天の言葉を冷静に聞いている様に見えるかもしれない。しかし当然、明依の脳内は混乱していた。どうしたらいいのか、何一つ思い当たらない。

「だからって私じゃなくても……私以外にも、竹ノ位の遊女は満月屋にいます」
「宵がお前に特別な配慮をしてきたのは、お前に大夫の素質があると思っての判断だと聞いた」

 叢雲のその言葉に、明依は目に溜まった涙が零れないように上を向いた。どうして今、そんな事を言うのか。あんなことがなかったら、喜んで受け入れた。どれだけ厳しい稽古でも耐えてみせると言っていたはずだった。

「明依ちゃんの意思は?」
「悪いが考慮出来ない。しかし、松ノ位は吉原の遊女の憧れ。もし状況が変わらなければ、吉原は終夜の手中に落ち、宵は始末される可能性もある。何か不都合があるとは思えないが」

 恐る恐ると言った様子で清澄は問いかけたが、叢雲の返事は予想通りのものだった。

 宵は自分が頭領になる為に満月屋から3人目の松ノ位を出そうとしている事は知っているんだろうか。いや、知らないはずない。だからあの時、一瞬言葉を止めたのだろう。だったら、この案を受け入れないという事は、宵からしてみれば、見捨てられた事と同義じゃないか。

 明依は思わず息を吐きだしながら薄く笑った。確かにこれは、終夜の言う通り。深く刺さる一手だ。完敗じゃないか、こんな状況。

「明依。その様子だと、何かあったのか?」

 炎天は心配そうにそう問いかけた。明依はただ、首を振った。この何も考えたくない感覚は、日奈が死んだ時に似ていた。

「……急に『松ノ位に推薦したいから協力しろ』なんて凄まれても、納得できるはずないさ。今日は明依ちゃんも疲れているはずだ。少しだけでいい。時間をあげてくれ」

 何も言わなくなった明依をさすがに不憫に思ったのか、叢雲と炎天は何も言わずに黙っていた。清澄は明依の背中に置いた手にぐっと力を入れて、明依に歩く様に促した。

「俺が送って行こう」

 清澄に促されるまま、明依は足を動かした。満月屋に付く間、会話はなかった。清澄は満月屋に付く前、「今日は何も考えず、ゆっくり眠るといい」とだけ言った。

「今帰ってきたのか?随分遅かったね」

 満月屋の中で宵の姿を見つけた瞬間、明依の心臓は大きく跳ねた。宵はこちらに気付くと、そう言いながら歩み寄ってきた。

「清澄さんも一緒でしたか」
「ああ、そこでばったり会ってね。この後仕事はもうないって言ってたから、ちょっと付き合ってもらってたんだよ」
「そうでしたか。ところで表が騒がしかった様に思ったんですが、何かあったんですか?」
「……さァ。俺達はずっと店の中にいたから、何も気が付かなかったけど。ね、明依ちゃん」

 清澄の言葉に、明依はうなずいた。勘のいい宵がこんなことで騙せるとは到底思えなかったが、気力というものの全てを使い果たしてしまった様な気がした。

「明依、どうした?顔色がよくないよ」
「悪いね明依ちゃん。仕事終わりで疲れている所に無理に誘ったのがいけなかったかな。宵くん、今日はゆっくり休ませてあげてほしい」
「ええ、勿論」

 清澄に背中を押されて数歩前に出ると、宵は明依に手を差し出した。

「ごめん、宵兄さん。大丈夫だから。今日は先に休むね」

 そう言うと明依は、足早にその場を去った。
 今は、怪しまれても構わない。それでもいいから、宵の手には触れたくなかった。この手にはついさっきまで終夜の指が絡んでいて、その感覚がまだ鮮明に残っている様な気がしたから。
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