造花街・吉原の陰謀

14:甘言に惑う

「って言うのは冗談だよ。ちょっと揶揄(からか)っただけ」

 終夜そう言って何事もなかったかの様に明依から離れたが、明依は放心したまま布団の上でへたりこんでいた。
 障子窓を開けて外の様子を見た終夜は、「まだ収まりそうにないね」と呟いた。どうやら本気であの座敷の続きをするつもりはないらしい。何事もなかった安心感だったり、揶揄われた悔しさだったりで明依は混乱していた。

「そんなところでぼーっとしてると、本当に襲っちゃうよ」

 そう言いながらも障子窓の側に座り込む終夜。しかし明依は、その一言で急いで布団から立ち上がった。そして念のために布団を丁寧にたたんで部屋の端に置いて、終夜を警戒しながらその布団の側にゆっくりと座った。

「いっつも無駄だってわかってるのに、抵抗する事だけは忘れないよね。もはや芸だよそれ」
「アンタ本当、何考えて……バカじゃないの」

 この男の思考回路が全く分からない。そしてやっと出てきた言葉がこれだった。終夜はその言葉に笑いながら外から明依に視線を移した。

「そんなに嫌なの?」
「嫌に決まってるでしょ!!」
「宵に顔向けできないから?」

 終夜の的確過ぎる言葉に明依は口ごもった。そもそも、だ。どうして自分は受け入れてもらえて当然だと思っているんだと、言いたいことは山ほどあるが。

「でも、あの一件で宵とは距離が出来たんじゃない?」
「なに言ってんの。そんな訳ない」
「出来ない訳ないよ。あの様子だと、宵とアンタは前日にそういう事になった。で、アンタはあれだけあからさまに宵を怖がって、守ろうと思って怖がらせた宵からは何も言えない。距離感が掴めなくて気まずくなって、それでちょっと感傷的になっちゃって大門の外に思いを馳せてた。ってところでしょ」

 明依は視線を逸らして下唇を噛みしめた。間違いなく全て、自分の意思で行動した。それなのにどうしてここまで、この男に見透かされるのか。だから何、アンタに関係ないでしょ。と強がる一言も出てこない。

「今日でまた一つ学んだね。何もかも嫌になってこの街から逃げ出したくなっても、あの大門から出ちゃダメだって」
「言われなくても分かってるし、私はそもそも逃げ出したりしない」
「だといいけど。結構いるんだよ。観光客に紛れて逃げ出そうとする浅はかな考えのヤツが。そんな遊女は決まって虚ろな目をしてる。本当にもう何もかも嫌だって顔。アンタもそんな顔してたよ」
「私は違う」
「どうだか。だってアンタ、自分の事何もわかってないし」
「私の事を知った様な口きかないでよ!」

 強い口調でそういいながら終夜を睨んだ明依だったが、当の彼は薄ら笑いを浮かべて真っ直ぐに明依を見ていた。
 いつもそうだ。いつもこの男の思い通りになって、いつもこの男に心の内を見透かされている様な気になる。結局、先に目を逸らしたのは明依だった。

「そんな事より、どうしてくれるの?この状況」
「ほとぼりが冷めるまで待っておこうって話にならなかった?」
「なってないから。炎天さんに謝るって言った私を無視して、アンタが勝手に決めたんでしょ」
「いつだって弱者は強者に従うしかないんだよ。残念だったね」

 そういう終夜に、明依は深くため息をついた。
 それから長い長い沈黙の時間が続いた。部屋の中は暗い。外から漏れる暖色の光と、少しだけ開いた襖から入り込む心もとない光だけだった。終夜は窓から外の様子を眺めていて、明依は何をするでもなく後ろの布団に寄り掛かっていた。

「退屈なら、話でもする?遊女黎明のこれからについて、なんてどう?」
「アンタ本当、どんな神経してんの」
「俺は普通だよ。アンタが繊細なだけ」
「私、何回もアンタに殺されかけてるんだけど」
「大げさだよ、ほんの戯れだろ。本気だったのは、宵を連れて行く時の一度だけ」

 一度で充分に決まってんだろ。と思う気持ちはきっと、この男には理解できないのだろう。それからまた、沈黙が流れた。終夜は相変わらず、吉原の街を眺めている。

「旭と似てたの?死んだ頭領の息子さ、」
「誰から聞いた?」

 明依の言葉を遮って、終夜はそういった。冷たく圧をかける様な声だ。しまったと思った。興味本位で聞くには危険すぎる内容と相手だったことに、明依は一瞬で後悔した。
 終夜は窓から明依へと視線を移した。射抜かれるような視線に、思わずたじろいだ。

「何でアンタが暮相(くれあい)兄さんの事知ってるの」
「それは……」

 終夜はしばらく明依を見ていた。このまま黙っていれば諦めてくれないだろうかと思った明依だったが、終夜はゆっくりと立ち上がって真っ直ぐに歩いてきた。立ち上がって逃げようと考えているのに、身体がついて行かない。

「ねェ。誰から聞いたのって、聞いてるんだけど」
「だ、誰だって知ってるでしょ……!頭領に息子がいた事なんて」

 明依は座ったまま後ろに移動したが、布団が邪魔でそれ以上後ろへは行けなかった。終夜は明依の頬を鷲掴みにしてしゃがみ込んだ。

「その話じゃない。旭と暮相兄さんが似てたなんて、誰が言ったの?」

 終夜の腕に手を伸ばそうとしたが、終夜は一瞥する事もなく明依の頬を掴んでいない方の手で明依の手首を握った。
 絶対に適う訳がないと本能が告げている。素直に名前を言えば、晴朗は殺されるだろうか。何が正解なのかわからないままたじろいでいると、終夜は両手に力を込めた。痛みで顔をしかめるが、終夜はこっちを見ろとばかりに明依の顔を引き寄せた。

「アンタの嘘はすぐにわかる。で、誰?宵?」
「違う……。宵兄さんじゃ、ない」

 明依がやっとの事でそういうと、終夜は黙り込んだ。やっと顎から手が離れると、終夜は明依の肩に額を預けた。何か考え込んでいるんだろうか。しばらくそうしていると、終夜は大きくひとつ溜息を吐き捨てて、ズルズルと額をずらした。

「そんな顔、させるつもりなかった」

 終夜はそう言った後、明依が畳んだ布団に背中を預けて腕で目を隠した。

「今の、完全に八つ当たり。ごめん」

 終夜に動く気配はない。しかし、握られたままの手首には強い力が入っていた。

「ねえ、どうしたの……?」

 すぐそばにいる終夜に恐る恐る話しかけてみるが、反応はない。明依は握られていない方の手で自分の目を隠している終夜の腕に触れて、彼の手を握って持ち上げた。脱力した腕は、重い。何を思い出しているのか。目を伏せたその表情はどこか悲しそうで、とても綺麗だった。思わず見惚れてしまうほど。

 『きっとこの子は、自分の感情を言葉や態度に出す事が苦手なんだと思った。いつもなんてことない顔して笑って、傷ついてない風に見せてるだけだって』

 いつか日奈が語った終夜という人間を、残酷な人間だと否定してきた。だから今回だって、いつも飄々としているくせにそんな顔もするんだ。と認識しただけの事に過ぎない。ただそれだけのはずなのに、このどこまでも残酷な男に人間味を感じていた。以前雪に見せたどこか優しさのある態度だったり、もしかすると日奈の言う通りなのかもしれないとバカげたことを思っている。急に、不安になった。思っていた終夜という人間はきっと、こんな顔をしないから。でも、本当に日奈の言うような人間なら、あんな悪い噂が立つはずないじゃないかと、明依はひたすら自分に言い聞かせていた。

「終夜」

 はやくいつもの調子に戻ってほしい。そうじゃなければ、自分で自分を強く強く否定してしまいそうになるから。そう思っている割に彼の名前を呼ぶ声は温かくて、自分自身の胸を深く深く突き刺す。
 明依は終夜の髪を払って、思わずその頬に触れた。

「終夜」
「聞こえてるよ」

 明依が名前を呼べば、終夜は目を閉じて頬に触れている明依の手を自分の手で包んだ。びくりと反応した明依だが、終夜のもの寂し気な雰囲気に肩の力を抜いた。

「いい人だったよ。暮相兄さん。……で、なんだっけ。暮相兄さんが旭と似てるかって話だっけ。旭の誰からも慕われる所が暮相兄さんにそっくりだって言う人もいるけど、俺は別に似てないと思う。暮相兄さんの方が旭よりよっぽどいい加減だったよ。でも……いい人だった」

 終夜はそう言うと息を吐いた。それは喉元で震えていて、なんだか無性に泣きたくなる様な音をしていた。

「自殺だった。わかったきっかけは、腐敗した死体が打ち上げられてるってその地域に遊びに来ていた観光客から警察に連絡があった事。それが調べたら、暮相兄さんのものだった。船に乗るところを何人もの人が見ていて、そのうちのひとりが一人旅ですかって聞いたら、『そうですね。無性に海が見たくなったので』って言っていたらしい。おそらくその後、人目がない隙に海に飛び込んだ。……って話だよ」

 終夜は閉じていた目を開くと、ぼんやりとした様子で天井を見た。終夜の目は、ただ周りの色を反射しているだけに見えた。まるで、ビー玉の様だ。

「新聞にもニュースにも、話盛ってんじゃないのってくらい詳しく載ってるんだよ。言葉を選ばずに言うなら、幻滅した。あんな終わり方をする人じゃないって強い先入観があったから。でも元をたどれば頭領が殺した様なもので、だからって別に、今更どうしようもない。暮相という人間はもうどこにもいない。帰ってこないんだから、考えたって仕方ない」

 明依は終夜の話を黙って聞いていた。未だに信じられなかった。あの飄々として、自分に都合の悪い事はひらひらとかわす。そんな掴みどころのない終夜の面影が、今は全く見えない。

「いい思い出、なんだ」
「思い出はいつも綺麗だよ、嫌気がさすくらい」

 明依は日奈が終夜の幼い頃を語った時の表情を思い出していた。

「自分でいい所だけ選んで、切り取って、飾り立てて。そうやって美化してるくせに、どうしようもないくらい綺麗。たまに、おかしくなりそうだって、本気でそう思う」

 瞬きを一つした終夜は、明依を見た。絡んだ視線に心臓が大きく音を立てた。

「アンタの中の思い出もきっと、目が(くら)むほど綺麗なんだろうね」

 終夜は困ったような、悲しそうな顔をして笑う。真っ直ぐに見つめてくる終夜から、目をそらすことが出来なかった。
 この近い距離感で話す感覚が、懐かしい。まるで旭と話している様な感覚だと思った。だからだ。だから少しだけ、この男との距離感が狂ってしまったんだと思う。

「この店に急いで入っていく男女を見たと聞いたんですが。確認させてもらえますか」

 遠くから小さく小さく聞こえた声に、終夜は一瞬で表情を変えて明依から視線を逸らした。そしてどこか気だるげにもう一度明依に視線を戻した。

「どうする?」
「どうするって……?」
「大人しく捕まるか、ほとぼりが冷めるまで一緒にいるか」

 終夜から提示された二択で、明依は混乱していた。しかし終夜は、この状況でも焦り一つ見せない所か余裕がある様にさえ見える。

「見ない方がいいと思うけどねェ」

 そういう老婆をよそに何人かが階段を上がってくる音がする。

「選んでいいよ。どっち?」

 どちらが正解なのか、分かっているなら教えてほしい。それなのに終夜は、本当に明依に委ねる気でいる様だ。土壇場で選ばせるくらいなら、最初からこんなややこしい事に巻き込まないでほしい。逃げはしたが、炎天が相手なら話せばきちんとわかってくれるはずだ。最初からそうしておけば、こんな思いをしなくてよかったはずじゃないか。それなのに無理矢理引っ張って、こんな場所に連れてきて、らしくない顔をして、調子を狂わせて。やっぱりこの男は、傲慢で自分勝手で、大嫌いだ。

「一緒に、いる」

 明依が言葉を言い終えた瞬間、終夜は体を捻らせて明依を布団に押し付けた。

「先に言っとくけど、アンタが自分で選んだんだよ」

 終夜はそう言いながら、一瞬で明依の帯を解いた。抵抗する間もなく、両手で耳を塞ぐように明依の頭を抱えて、深く深く角度を変えて口付けた。抵抗しようと終夜の着物を握ったが、口内で反響した音が脳に直接響いて、感覚が麻痺していく。実際にそうなのか、混乱しているのか、息をする時間さえ見つからなかった。
 終夜は明依の耳元から手を離すと、片手で明依の目を覆って視界を奪った。逆の手が明依の着物を払って腹部をなぞった事と、「開けるぞ」という声が聞こえたのは同じタイミングだった。
 目が眩んで力がうまく入らないこの状態が、酸欠だという事は回らない頭でも分かった。終夜もわかっているはずだ。それなのに、肩で息をしている明依に軽く、それから深く、不規則な口付けを落とし続ける。明依は力の入らない手で、何度も終夜を押し返した。

「苦し、も、もう……やめて、」
「このくらいで、へばらないでよ」

 終夜は明依の腹部から内ももまでを指でなぞった後、そのまま腕を滑らせて明依の片足を浮かせた。

「ね、もっと声出して。せっかく二人きりなんだから」

 少し離れた所でバタバタと騒がしい音が聞こえた。そう言った終夜は明依の目元から手を離すと、自分の着物を握っている明依の手に指を絡めた。明るさに目が慣れている人間が急にこの部屋を覗いたって、おそらくこの部屋にいた男女が誰かという事まではわからないだろう。上手く騙せたという事でいいのかと、出入口を確認しようと首を動かした明依だったが、終夜は頬で明依の顔を押しやって逆の方向を向かせると、首筋に顔を寄せた。

「痕、つけないで……!」
「わかってる」

 小さな声でそう言うと、終夜は掠れた声で答えながら明依の鎖骨にリップ音を鳴らして口付けた。それから両手で明依の頬を包むように触れた。

「あーあ。泣いちゃった」

 終夜はそう言うと、親指で明依の目に溜まった涙を拭った。

「泣いて、ない。苦しかっただけ」
「やめる?」
「やめる」
「どうせもう、宵に顔向けできないのに?」
「……わかってるから、言わないで」

 処理しきれない程の罪悪感で、胸が締め付けられて仕方ない。これからこの罪悪感を背負っていかなければいけないと考えるだけで、吐き気がする程。宵にも吉野にも酷い事をした男と、親友が好きだった幼馴染と、誰にも言えない秘密を作ってしまった。この男と共有する秘密なんて、枷と同じなのに。流されたのか、自分の意志だったのか。それすらもよく、わからない。
 いっそ吉原から逃げだしたと勘違いされて、違うと弁解した方がよほど気は楽だっただろう。もう弁解の余地はない。与えられた二つの選択肢から、自分で決めた事なんだから。

「言わないで。……お願いだから、宵兄さんには、言わないで」
「わがまま。自分で選んだくせに。俺と一緒にいるって」

 明依の目に溜まった涙を、終夜はもう一度親指で拭った。

「宵、宵って……。あの男のどこがいいわけ?」

 終夜は冷たい視線を明依に注ぐと、溜息を一つ吐き捨てた。

「別に言わないよ。アンタが余計な事に首を突っ込まずに、今まで通りおとなしくしていれば。約束、できる?」

 明依が頷いた途端、終夜は噛みつくように激しく明依に口付けた。それからゆっくりと唇が離れる頃には、自分の心臓の音がすぐ耳元で聞こえた。

「そんな顔で外出たら、勘のいい宵はすぐ気付くよ。窓辺で風でも当たったら」

 終夜は優しい顔で笑うと、明依の身体を起こして着物を整えた。その異様な優しさの根源が、〝やっと首枷をつける事が出来た〟という理由ではない可能性は、一体どれくらい残されているのだろう。
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