造花街・吉原の陰謀

17:終着点を教えて

 時刻は午前0時をまわった所だ。
 祭りの様に騒がしかった妓楼が、別世界に変わる時間。

 明依は客を送り届けた後、満月屋に戻ってさっさと風呂に入った。別に珍しい事でもないが、客と共に一晩過ごさなくていいのはラッキーだった。

 自室で誰にも邪魔される事なく眠ることが出来る。遊女達のラッキーの基準は、大体世間一般から大きくずれている。

 つまり俗な表現をするなら、やることやってさようなら。となった訳だが、今日相手をした客にはおそらく家に待っている人がいるのだろう。時間を気にした様子で0時前に帰ろうとするのだから、吉原に深く絡めとられて身動きが取れなくなった客に比べればまだ可愛いものと思えた。

 〝家〟〝家族〟という集まりには、自分だけの確固たる居場所がある。それがどれだけ幸せな事か、ここに依存する客は気が付かない。当たり前にある、あって当然のモノだから。

 遊女という、いくらでも代わりの利く存在からすれば、これほど手に入れたくてたまらないモノもなければ、手に入れられないモノもない。

 たった紙切れ一枚で成立する契約。言葉にしてしまえば簡単なその行為は、〝他の誰かではなく、あなたがいいんです〟と暗に告げている。互いに承認する事を望み、受け入れられることを知っている。一体そのどれ程が理解できていて、こんな場所で遊び呆けているのだろうか。

 そう考えると、客の後ろにいる家族や関係者に申し訳ない気持ちが生まれて客に対しても言いようのない苛立ちが生まれてくるのだが、仕事なのだからと明依は考えないようにしていた。

 心の内でどう思おうと、やらなければいけない仕事内容は何一つ変わらない。ただ、こう考える事でまだ共依存への道は進んでいないと実感して、安心感を覚える。吉原に染まらない為の、あまりにささやかな抵抗とも言える。

 明依は人の通りの少なくなった廊下を歩き、宵の部屋の前で立ち止まった。いつまでもこのままにしていたって仕方ないじゃないかという、やけになったと言われればその通りの勢いだった。

 吉原という街の裏側をよく知る双子の幽霊に〝終夜に逆らうな〟と言われたんだから、仕方ないじゃないか。そんな言い訳にはとっくに方が付いていた。
 結局、知られたくないという気持ちが先行している限り、〝松ノ位への推薦は、受け入れられない。それ以上の事は言えない〟と、そう告げる以外にできる事は何一つとしてないのだ。このままずっと、どうしようと悩み続けて自分の首を絞め続けるくらいなら、いっそ一思いに宵に告げてしまいたい。

「宵兄さん。話があるんだけど」

 明依は宵の部屋の襖を少し開けてそう声をかけたが、返答はない。恐る恐る襖を開けると、宵は文机に突っ伏したまま眠っていた。

 その顔は余りに無防備で、目鼻立ちのしっかりとしたいつも顔がどこかぼやけている様な、幼さをほんの少しだけ残している様な、そんな気がした。よく考えると、宵の寝顔を見るのがこれが初めてだ。長い間同じ場所で生活している。知らない事の方が少ないと思っていたが、案外知っている事の方が少ないのかもしれない。

 安堵した。身体中の力を解く為に吐き出した息が、腹部で震えるくらいには。それならば何もなかった事にしてさっさと部屋から出ればいいのに、几帳面な宵にしては珍しく畳に放られていた羽織を宵の肩にかけた。

 一体何がしたいのか、自分でもよくわからない。宵が眠っている事でこの件を先延ばしにできると心底安堵しているというのに、それと並行して今言わなければと焦燥感が追い立ててくる。

 明依が羽織から手を離すと、宵はゆっくりと目を開けた。

「……宵兄さん」

 せわしなく動く頭の片隅では、至極冷静な自分がいた。宵が起きる事は、頭のどこかでは理解していたんだから。
 宵は少しの間ぼんやりとしていたが、すぐに喉元でくつくつと笑った。

「完全に寝てたね。全然気が付かなかった」

 そういうと、宵は上半身を文机から離した。その動きで肩から滑り落ちそうになった羽織を掴んだ。咄嗟の事だったのだろう。驚いた顔をしていた宵だったが、すぐに優しい顔をして明依に笑いかけた。

「ありがとう、明依」

 仕方ないと思っていた気持ちが揺らいでいる。答えは何一つ変わらない。それなら〝松ノ位への推薦は、受け入れられない。それ以上の事は言えない〟と告げる以外、できる事はないというのに。
 明依はこくりと一度頷いて、薄く笑った。

「もう怖がられていないみたいで、安心した」
「宵兄さんが私を守ろうとしてくれたことは分かってるって、言ったでしょ」

 まともに話をするのは、晴朗と縁側に座っていた時に注意されて以来だ。その時も、会話という会話ではなかった。

「頭では理解していても、折り合いをつけられない事だってあるよ」

 明依が宵に対する恐怖を抱いたまま、折り合いをつけられずにいると思っていたのだろうか。真意は分からないが、明依はまさに今の自分の状況を言われている様な気がした。

 宵に知られたくないのなら、叢雲の提案を断ったと説明しないといけないと理解している。それなのにこの期に及んでも、少しでも引き伸ばしたいと思っている。

「それで。何か話があって来たんだよね」

 そう言うと宵は明依に向き直った。明依は、宵を直視する事が出来ずに俯いた。
 宵の為に努力してきた。何よりの恩返しだと知っていたから。

 それこそが吉原で生きる為の理由だった様な気さえする。だから、終夜のいいなりになって目立たず騒がず。その行為は、今までこの街で生きてきた自分自身を真っ向から否定している様に思えて仕方なかった。

「私、松ノ位への推薦は受け入れられない」

 だから明依は、勢いに任せてそう口にした。少し待ってみても、宵は何も答えない。

「……ごめんなさい」

 宵が今どんな表情をしているのか確認する事さえ、怖くてできそうになかった。

「いくつか質問をしてもいいかな」

 宵は平坦な口調でそういう。事務的な響きをしているような気もするし、怒っている様にも聞こえる。当然拒否する権利などある訳もなく、明依は頷いた。

「叢雲さんから聞いた?」

 そういう宵に、明依は俯いたまましっかりと一度だけ頷いた。

「松ノ位への推薦を受け入れられない理由を、今ここで俺の目を見て説明できる?」

 明依は身体中からどっと汗が噴き出す感覚を覚えたと同時に、五感の全てにフィルターがかかっている様な錯覚に陥っていた。考えろ、考えろと必死に自分に言い聞かせているというのに、肝心の脳みそは全く機能していなかった。

「明依。俺は、〝説明しろ〟と言っているんじゃないよ。説明することが可能なのか不可能なのか。それが知りたいんだ」
「……説明、できない」

 どうしてわざわざそんなことが知りたいのか。全くもってわからない明依だったが、これで推薦を受けられない理由を答えるという選択肢から抜け出せる事だけを祈っていた。

「わかった」

 宵にこれ以上言及するつもりはないらしい。おそらく双子の幽霊の言う通り、宵の中では明依を受け入れた時点で自分の責任だという事になっているのだろう。

「ごめんなさい」
「……正直に言えば、本当に想定外だった。ただ、謝る必要はないよ。わかったって、そういっただろ」

 元はと言えば、明依自身が蒔いた種だ。終夜が明依に同意を求める事なく強引に組み敷いてくれていたら、どれだけ楽だっただろう。折り合いだって簡単についたはずだ。勿論、終夜の過失という自分の都合のいい解釈によって。

「辛かったね」
「……え?」

 想像もしていなかった言葉に、明依は思わず声を上げて宵を見た。宵は陰のある様な物憂げな表情で明依を見ていた。

「俺は、真剣に大夫になろうとしている明依を知ってる。平均年齢を大きく超えて妓楼に入って、吉野大夫の世話役になって、日奈というライバルがいた。……それから、律儀な明依が俺に向けていた感謝の気持ちも。良くも悪くも全てが重圧になって、誰よりも努力していた事をよく知ってる。そんな明依が大夫になりたくないなんて、嘘でも言うはずがない。だから、裏で糸を引いている人間がいて、それが誰だか想像するのは大して難しい話じゃない。正直に言えば理由は見当もつかないし、簡単に暴けない事もよくわかってる」

 そう言うと宵は、今度は困った様に笑った。

「もしこの勘が外れているなら、俺は今まで自分が何を見ていたのか疑問に思うくらいだよ」

 明依は驚きのあまり、息をすることも忘れていた。
 一体、何が正解だったというのだろう。

 あの時、蕎麦屋の二階で大人しく主郭の人間につかまればよかったのだろうか。そうすればきっと終夜の言う通り、黎明という遊女の立場は地に落ちていただろう。

 だったら炎天に追いかけられた時、終夜の手を無理やりにでも振り払っておけばよかったのだろうか。いやきっと、それも同じことだ。それなら大門で終夜を見かけたとき、走り去っていればよかったんだろうか。さらに言えば、大門まで行かなければよかった。

 しかし座敷に上がれば客を見送る事になるのだ。そもそも表座敷に上がらなければ。

 蝶の羽ばたき程のわずかな出来事、気にも留めない程度の選択が、人生を狂わすほどの結末を引き連れて、明依の中に踏ん反り返っていた。

「……ごめんなさい」
「もう、いいから」

 慰めるような優しい声色でそういう宵に、明依は首を横に振った。

 自分が情けなくて仕方なかった。幻滅されるとばかり思っていたのだ。これほど信頼してくれている人を裏切って、終夜に責任転嫁しようとして。言い訳ばかり考えて。今もしも、終夜がこの事をなかった事にしてくれるのなら、きっと持ち得る全てをかけて大夫になる為に必要な事をやっているのにとさえ思っている。

 だったらどうして、もっと早く行動しておかなかった。思い返してみれば、チャンスなんて時間なんてたくさんあったはずだ。終夜に目を付けられるより前、もっと前に。いつかいつかと先延ばしにしたくせに。

 日奈が大夫になった時、置いて行かれてしまった様だと思うだけで何もしなかったくせに。奪われた途端恋しくなった。そして気付いた先には、当然何もなかった。明依からチャンスを取り上げたのは他の誰でもない、自分自身じゃないか。

「明依を松ノ位に推薦する理由は、もう聞いた?」
「宵兄さんを、頭領に推薦するためだって」
「本当は俺が明依に言うつもりだったんだ。叢雲さんにも念を押されていたのに、どんな風に切り出したらいいのかわからなくて、先延ばしにしてしまった。……こんな事になるなら、もっと早くに言っておけばよかった。明依が悩んで苦しかった時間はまだ短かったかもしれない」

 宵は優しすぎる。明依が仕事を放り出して主郭に足を運んだ時だってそうだった。だから、苦しくなる。こんな時に何一つ力になることが出来ない自分を、心底恨みたくなるほど。

 『度を越した感謝や忠義は身を亡ぼす』。空の言う事だって理解できない訳じゃない。しかしそれでも構わないから、この人の力になりたかったと心の底から思ってしまう。

「叢雲さんには俺から説明しておくから、」
「宵兄さんが、死ぬかもしれないって」

 結局黙っておくことも出来ないまま、明依は宵の言葉を遮った。宵は何の反応も示さず、ただ凛とした態度で黙っていた。

「あの男に関わる人間はよく死ぬ。本人だってそう言ってた。炎天さんは、他人に興味がない終夜が宵兄さんに執着しているからだって」
「考えすぎだ」
「そんな事ない。あの男が朔を殺す時、全く躊躇(ちゅうちょ)してなかった。普通じゃないよ」
「これ以上、首を突っ込むのはやめるんだ」
「でも、」
「明依」

 窘める様な宵の口調に、明依は押し黙った。そもそも何一つ力になれないくせに、気を付けてだの言える立場ではない。

「明依の気持ちは伝わっているよ。でも、終夜に執着されているのは俺だけじゃない。この意味が分かるね」

 少しの沈黙が流れた後、明依はこくりと頷いた。終夜に執着されているのは、明依も同じことだ。しかしその目的はおそらく、宵にとって明依を責める事が都合が悪いからという理由だろう。

「……死んでほしくないの」
「約束しただろ。『絶対にどこにもいかない。明依が許してくれるなら、ずっと明依の側にいる』って」
「死んだら、側になんていられない。宵兄さんが頭領になる以外、もう方法はないって。……私が松ノ位に上がる以外の方法はもう、決まってるの?」
「何とかなるよ」
「はぐらかさないで。宵兄さんがいなくなったら、私どうしたらいいの……?」
「明依が許してくれるなら、俺はいなくならない」

 そう言い切った宵は、明依の頬に手を当てた。

「もしも、俺か終夜か。どちらか一人しかこの吉原に存在することが許されないとしても」

 それは一体、どういう意味なんだろう。そう思うのは、おそらく宵が言うからだ。終夜が同じセリフを吐くのなら、そのままの意味でなんの抵抗もなく解釈しているだろう。一体あの終夜相手にどんな勝算があって、宵はそういうのだろう。

 明依は宵の懐に向かって手を伸ばした。きっと宵には、何か秘密がある。今までずっと、見て見ぬふりをしてきた。しかし宵は、自分自身に触れる(すんで)の所で頬に添えていた手を離して明依の手首を掴んだ。

 それからゆっくり明依の手を引いて横腹の部分、ちょうど羽織を来て隠れる位の位置、帯の少し上に明依の手を触れさせた。

 それが何か、触った事がなくてもわかる。間違いなく、拳銃だ。

「俺が怖い?」

 宵は平坦な口調でそう明依に問いかける。冷たい口調だった。もういっそ、怖がってくれても構わないとでも言いたげな程。やはり銃を持っているなんて、普通の事ではないんだと納得した後、明依は何も言わず宵を抱きしめた。

「宵兄さんが死ぬくらいなら、怖くていいよ」

 そういうと宵は、明依の背中に腕をまわして強く抱きしめた。

 人を殺傷できる武器であることは予想がついていたのだ。だから何となく、それが拳銃であろう事は予想はしていた。

 ただ、実際に宵が拳銃を所持しているという事実がまだ、明依の中で現実味を帯びていなかった。状況についていけないのだから、感情なんてすぐに湧き上がってくるはずもない。ただ、素直な感情であることは断言してもいい。

 宵が死ぬくらいなら、些細な事だと思っている。

「きっと秘密なんて、誰にでもあるよ」

 もしかして、自分に対する免罪符のつもりだろうか。明依は脳内がその答えを導き出すより前に、宵の肩に手を添えて身体を離した。宵の目を見れば、彼は真っ直ぐな目で明依を見ていた。

「だから死なないで」
「死なないよ」
「一緒にいて」
「うん。一緒にいよう」
「……許して」

 明依はそう言うと、宵が何かを答えるよりも先に自分から唇を重ねた。

 何だっていい。宵が生きていてくれるなら、彼の抱えている秘密が何であろうと構わない。

 この感情に一体、どんな名前を付けたらいい。旭に向けていた暖色のどこまでも綺麗な感情とは明らかに対極にあるこの感情。それなのに色で言えば、中性色。〝執着〟という言葉が嫌味な程よく似合う。どちらにも共通することがただ一つだけ。

 心の内に灯る温かい何かが、自分という存在を浮き彫りにしている。たったそれだけ。そこに浮き出た影の形は、全く違うものだ。
 明依は少しだけ唇を離した。

「〝好き〟って、言って」
「〝好き〟だよ、明依」

 何をいまさら不安になることがあるんだ。宵は見抜いてくれたじゃないか。何が不満なんだ。これ以上一体、何が欲しいのか。何一つわからないクセに、今にも唇が触れそうなくらいのこの距離が悲しく感じた。

 明依は宵の口内に舌を割り入れた。なるべく不慣れな様に見せかけて。しかし宵は、それをかき消すように明依の口内に舌を入れる。もしそれが明依の心の内を予想しての事なら、思い通りになっているのは間違いなく自分の方だと頭の隅で明依は思った。

 これほどまで客の心情を詳細に理解できる日が来るなんて思いもしなかった。心がない事なんてわかり切っているのに、そうは言いながらもなんだかんだ少しくらいは可能性があるんじゃないかなんて本気で思っている。

 残念ながら遊女の立場に当てはめるのなら、それは幻だ。幻惑されているに過ぎない。だからこの状況もきっと、同じ事だ。でも、だけどと言い訳が押し寄せてくる時点で、普段は自分が仕掛ける全く同じ罠に自分自身がハマっている。

 突然明依の頭の中を過ったのは、蕎麦屋の二階で終夜が見せたもの寂し気で綺麗な顔だった。明依はとっさに弾かれた様に身を引いた。

 どうして今、このタイミングで終夜を思い出すんだ。そんなことを思っていられたのは本当に一瞬の事だった。宵は明依の後頭部に手をまわして、離れて行くことを許さなかった。

「好きって言って」
「え……?」
「言って」

 圧をかける様な、余裕がない様なその口調は明依の知る宵から少しはみ出していて、心の内で何かが掻き立てて、騒がしい想いを抱かせる。

「すき」

 明依がそう言うと、宵はもう一度明依に口付けた。夢中の手前で離れた唇には唾液が糸を引いて、それからプツリと切れた。

 どうしてそんな、重苦しい言葉が聞きたいの。
 好きでも何でもないくせに。

 本気でそう聞いてみたくなる。そして同時に、本当にわからないものだと感心さえしていた。『好きって言って』と要望される事が、造られた幻想世界をこれほど立体的に魅せるなんて知らなかった。

 きっと吉原に染まった人間たちは、こうやって堕ちていったのだろう。
 宵は明依の額に自分の額を重ねた。

「許すよ、きっと。……だから俺を許して、明依」

 『明依が許してくれるなら、ずっと明依の側にいる』。それならもう、許しているはずだ。それなのにどうして、そんなに悲しそうな声でそんな言葉を言うのか。

 そのささやく様なもの寂しい声色に、頷く事さえできなかった。そんな明依を見た宵は短く笑って、明依の額に口付けを落とした。

 何事にも終わりがあると聞く。だったらこの関係の終着点は、一体どこなのだろう。
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