造花街・吉原の陰謀

18:曖昧模糊たる

 吉原の街が一番騒がしい時間。
 満月屋の広い座敷の中には、食事を置く台が20人分程並んでいる。

 その後ろには、竹ノ位の遊女が思いつめた様に俯いて座っている。しんと静まり返っている座敷の中には、何とも言えない緊張感が走っていた。

 明依は少し離れた所に座ってその様子を見ていた。これからこの座敷には、特別な客が来る。

「どうぞこちらに」

 遊女の一人が襖を開けて誘導すれば、次々に座敷の中に男達が入ってくる。
 一見すれば人畜無害に見える人間から、明らかに裏社会の人間まで。

 その中には、叢雲、清澄、炎天の姿もあった。
 何食わぬ顔で台の前に座る男達に、遊女達は先ほどの雰囲気を一片たりとも残さず消して、(ねぎら)いの言葉を口にしながら笑いかけた。明依は少し離れた所からその雰囲気の変わり様を感心しながら見ていた。

 今日の客人は主郭の御偉方(おえらいがた)
 下手をすれば、消される可能性だってある。遊女たちは極度に緊張しているに違いない。

 今日、直接接待する予定のない明依でさえ緊張しているのだから、当然だ。しかし、これだけ演技が出来れば騙されない人間の方がおかしい様な気さえしてくる。

 最後に座敷の中に入ってきたのは宵と雪だった。
 雪は最近、酌の仕方などを勉強している所なのだそうだ。雪は慎重な様子で襖を締め切った。開いている席もあるが、宵が入ってきて襖が閉まったという事は今日の参加者はそろっているのだろうと、明依は厨房に客が入り切った事を伝えに行くために立ち上がった。

 襖を開けると、誰かと正面からぶつかった。明依はバランスを崩したが、誰かに支えられて間一髪倒れる事はなかった。

「申し訳、」
「積極的キャラに路線変更?」

 声の主はそう言うと、明依の身体を支えていた手を離した。ドクドクと心臓の音がうるさく鳴っている。明依は恐る恐る顔を上げた。

「……終夜」

 自分でも驚く程か細い声だった。しかし明依がそう呟いた途端、和やかな雰囲気を一掃して糸がピンと張り詰めたような緊張感が広い座敷中に走った。

「どうしてお前がここに、」
宴席(えんせき)は嫌いではなかったのか、終夜」

 声を荒げる炎天を制した後、叢雲ははっきりとした口調で終夜にそう問いかけた。

「自分の管轄下の妓楼で行われる宴会に出席しない程、不愛想(ぶあいそう)じゃないよ」

 終夜はそう言うと、開いている席に腰を下ろした。

「ここ数か月でいろいろなことがあったけど、少しずつ落ち着いてきているんだ。騒がしいのが懲り懲りなのは、みんな一緒だろう。今日は忘れて、ただ楽しもうじゃないか」

 清澄の声で、座敷はほんの少しだけ和やかな雰囲気を取り戻していた。ふいに視線を感じてそちらを見ると、宵が明依を見ていた。宵は首を小さく横に振った。〝この座敷に戻ってくるな〟という意味だという事を理解した。

「どうしたの?震えてるよ」

 明依が座敷から出ようとすると、いやにはっきりとそう言う終夜の声が聞こえた。明依が振り返れば、終夜の隣に座る遊女は顔面蒼白のまま震えて浅い呼吸を繰り返していた。一体誰のせいでそうなっているのか、分からないほど馬鹿でもないくせに。明依はそう思いながらその様子をただ見ていた。

 明依が知らなかっただけで、〝吉原の厄災〟の悪評は吉原の妓楼の中では有名らしい。だから終夜が旭の後任だと聞いた時の遊女の反応を想像することは、大して難しくはない。そしてそれは勿論、この〝吉原の厄災〟を客として相手にしなければいけないという恐怖心についても同じことだった。

「大丈夫?」

 終夜はそう言って遊女に手を伸ばしたが、遊女は終夜の手を打ち払った。咄嗟の事だったのだろう。一番驚いているのは手を払った遊女の様で、さらに顔を青くして目に涙を溜めた。

「こっ、これは違うんです!!申し訳ありません……!」
「この妓楼では、人の善意は無下(むげ)にしろって教育をするのかな」

 恐怖で混乱している様子の遊女と相反して、終夜は薄ら笑いを浮かべている。終夜はそう言うと、感覚を確かめるようにゆっくりと遊女の首に手を回した。

「何か、言い残す事はある?」

 どうせ終夜は本気じゃない。放っておけばきっと、誰かが止めるはずだ。実際に宵はもう終夜の方へ向かって歩き出そうとしているし、座っている主郭の人間の視線は終夜に向いていた。

 だけどもし、終夜の目的が宵を挑発する事だったら。いやもしそうだとしても、これだけ人数がいるのだから誰かが止めてくれるはずだ。だから放っておけばいいのに、じわじわと遊女の首に食い込む指先から目が離せなかった。

 明依は駆け出して、宵の隣を通り過ぎると終夜の腕を掴んだ。

「手、離して」

 明依がそう言うと、終夜は遊女から明依へと視線を移した。

「じゃあ、チェンジ。アンタもう行っていいよ」

 遊女は顔面蒼白のまま心配そうに明依を見たが、すぐに逃げる様にこの場を去っていった。明依が終夜の手を離すと、彼は自分の隣をぽんぽんと数回手のひらで叩いた。

「座りなよ。優しいお姉さん」

 明依は終夜を睨んだが、いつもの様に受け流されるだけだ。明依が隣に座った事を確認した終夜は、「よいしょ」と声を上げて立ち上がると歩き出した。

 どこに行くのか気にならなかった訳ではないが、気にすると負けな気がした明依は視線ですら終夜を追いかける事はしなかった。

「おい終夜!!何をしている!!」

 誰かの声が座敷中に響いた。全員が弾かれたようにそちらを見れば、終夜が押し入れを開けて双子の幽霊を直視していた。見て見ぬふりをする人、青ざめている人。遊女だけでなく、主郭の人間でさえ恐怖に満ちた顔をしていた。

 双子の幽霊とは吉原の人間にとってそういう存在だという事を明依は改めて認識していた。そして、どこまでも悲しい気持ちになる。

 しかし、最近まで明依だってそうだったのだ。双子の幽霊という存在が、怪談話では到底済みそうにないほど目撃情報が多い事は否定しないが、幼い頃から関わらない様にと言われてきた双子の幽霊が目の前に現れて正気を保てる人間の方が少ないだろう。

 終夜はそんな座敷の雰囲気を全く気にする様子もなく、押し入れの中に座っている二人の前にしゃがみ込むとニコリと笑った。

「子どもがいるんだけど、正直言うと邪魔なんだ。遊んでやってよ」

 二人は顔を見合わせた後、終夜を見上げて何の反応も示さなかったが、終夜は二人の襟の後ろを掴むとずるずると引きずりながら押し入れの外に出した。

「勝手な事を……!」
「旭が死んだ後、この妓楼の事を見て見ぬふりをして誰かに押し付けようとした人間に、勝手だの何だの言われる筋合いないね」
「それとこれとは話が、」
「ここは俺の管轄している妓楼だ。そんなに言うなら誰か、俺と代わろうか」

 その会話の最中、終夜は手招きをした。すると雪が小走りで終夜の元に走っていく。終夜は主郭の人間が何も言い返さずに黙り込んでいる様子を確認すると、笑顔を作った。

「集団心理って言うのは恐ろしいね。大の大人が、無知な子どもより小さく見えちゃうんだから」

 傍から見ているだけで怯みそうな程強い視線を一身に受けても、終夜は全く気にする様子を見せない。

「双子の幽霊さん?」
「そう。こっちが空。で、こっちが海」

 雪の問いかけに、終夜はポンポンとそれぞれ二人の頭に手を置きながらそう説明した。この雰囲気からして、主郭の人間も双子の幽霊と深く関わっている訳ではないらしい。

 だったらどうして終夜は、双子の幽霊の名前を知っているんだろう。それは少なくとも、明依くらいには双子の幽霊と関わっているという事だ。双子は大して表情が変わらない。何を考えているのかはわからないが、終夜の手が頭に乗っている二人からは抵抗する様子所か、嫌だと思っている様子すら微塵も感じられなかった。雪は終夜の言葉に目を輝かせて、双子の幽霊を見ていた。

 何度でも言うが、終夜の事は嫌いだ。
 以前からの言動はもちろんの事だが、ほとんど無理矢理丸め込まれた様なものなのだから、好きになれと言うのも無理な話だろう。しかし、今回の様に時折見せる優しさが気にならない程、心のない人間ではないと自負している。

 人間の感情というのは、本当に複雑だと思うばかりだ。つい先程までは嫌いで嫌いで堪らなかったというのに、双子と雪への態度を見て自分の考えに対して疑念を抱いているのだ。

 日奈や旭が見ていた終夜という人間は、こんな人間だったんじゃないのかと。だからまた、この男の事が分からなくなる。

「この街の裏話でも聞いているといい。理解ができる範囲の知識は、早めにつけるに越したことはない。じゃないと、〝世間知らず〟って呼ばれるよ」

 〝世間知らず〟を強調する終夜。それが雪に向けて言われているように見えて、自分に言っているんだという事を明依は理解した。やっぱりこの男は嫌いだと再認識して、明依は終夜から視線を逸らした。

「性悪男」
「被害妄想だよ」

 戻ってきた終夜に明依がそう言うと、彼はどこか楽しそうに言葉を返した。

「宵」

 明依の隣に座った終夜は宵にひらひらと手を振った。宵は終夜に視線を移すと、少し警戒した様子を見せた。

「こんな機会は滅多にない。腹を割って話をしようよ。まずは、満月楼の今後について」

 一方的に殺意を向けていたくせに、何を偉そうに。と思う明依をよそに、宵は短く息を吐き捨てた。

「確かに、こんな機会は滅多にないね」

 宵はそう言うと、明依の隣に腰を下ろした。〝これからあなた達のお話される事は、何も聞こえていませんよ〟という意味を込めて少し後ろに下がろうとする明依だったが、終夜はそれを制すように明依の腰に手を回して引き寄せた。

「ちょっと……!」
「アンタの今日の仕事は、男同士の味気ない会話に色を添える事だろ」
「客に遊女を選ぶ権利がある様に、遊女にだって客を選ぶ権利はある。黎明、嫌ならそう言っていいんだよ」
「そうは言っても、妓楼の評価が自分の評価に直接関わる楼主の前だよ。言い辛いでしょ。っていうか、俺がその客だとしたら言わないのが大人の気遣いじゃないの?」
「この妓楼の中では、相手が好意を持っていないと分かっているのに、無理矢理抱き寄せて離さない様な人間を客とは呼ばない」
「ご立派な考えだと思うよ。満月楼の客が他の妓楼と比べても質がいい事には、楼主様のそういった繊細な気遣いがある訳だ。……で、アンタはどうなの?別に嫌じゃないよね。俺の隣にいるの」
「そういうのは誘導尋問と言うんだ」
「宵が何言っているのか、理解できないな。何か理由がなかったらそんなものに引っかからないだろ」
「……その理由を作ったのは一体誰だろうな」
「何の事?俺、何かしたっけ?」

 周りが終夜や双子の幽霊に警戒しつつも他愛もない話をし始める中、宵と終夜は穏やかな口調で、穏やかではない言い争いをしていた。宵と終夜はそれぞれ違う方向を見ながら何食わぬ顔をしている。三人の間には沈黙が流れていた。この空間は、居心地が悪いの一言では片付きそうになかった。

 その雰囲気は、料理が全て運ばれて来ても変わらなかった。
 明依は酒を注ごうと身体を起こしたが、意外にも終夜は明依からあっさりと手を離した。この場合、宵と終夜どちらから酒を注ぐべきなのだろう。

 立場としては終夜の方が上という事になるのだろうか。それに今日、終夜が客として来ているつもりなら、終夜から先に酒を注ぐべきだ。
 心底気に入らないが。

 しかし宵と終夜なら宵の方が年齢も、満月屋に関わる年月も長い。って言うか、そもそも終夜は未成年ではなかったか。明依がそう考えていると、宵はさっと手で明依の事を制して、〝先に〟と言うかのように終夜の方へと手のひらを向ける手振りをした。

「大人だね~宵」

 茶化すようにそういう終夜は、再び明依の腰に手を回した。腹が立った明依はバランスを崩したふりをして終夜の(すね)に一発入れてやろうと拳を握って体重をかけたが、あっさりと手を握られてさらに密着する形となった。

 本末転倒。握られている手を引いてもびくともしない。

「離してよ!!」
「いやだなァ。自分から甘えてきたクセに」
「甘えてない!!変な事言わないでよ!」
「素直じゃないな」
「お久しぶりです。終夜」

 その声に、終夜は弾かれた様に声の主へと視線を移し、それが誰かを確認すると目を丸くして驚いていた。和やかな雰囲気を取り戻していた座敷の空気が、一瞬にして変わった。

 まるで終夜がこの座敷に来た時の様に、緊張感が走っていた。

 終夜は座敷の出入り口に立っている男、晴朗から視線を逸らすとげんなりとした顔をして溜息を吐き捨てた。

「なんでアンタがここにいるの?」
「終夜が殺した朔の代わりですよ」
「聞いてないんだけど」
「あれ、そうなんですか?どうしてでしょう。定例に出席しないからじゃないですか?」

 そう言うと晴朗は、何故か明依を見てニコリと笑顔を作り、こちらに向かって歩いてくる。終夜は明依の肩を押して自分から引き離した。

「飽きた。アンタもう下がっていいよ」

 普通なら自分勝手なヤツだと心の内で罵っていたことだろう。しかし、どこまでもそっけない口調でそういう終夜に、明依はなぜか違和感を覚えていた。

「それなら、代わりに僕に酒を注いでください」

 晴朗は明依が立ち上がることを防ぐ様に、肩に手を置いてそう言った。説明し難い威圧感を明依の経験から引っ張り出して例えるなら、満月屋で宵が終夜に向けた殺気。それにとても、近い様な気がした。終夜は、小さく舌打ちをした。

「楼主。一つ横にずれてもらえますか。この男は危険です。あなたに何かあっては、僕の面目は丸潰れですから」

 宵は何か言いたそうな様子を見せた。しかし明依の視界のはしで、叢雲が小さく首を横に振った。それを見たからだろう。宵は言葉を飲み込んだ後、晴朗の言う通り一つ横にずれた。晴朗は宵がいた場所に座るとやっと明依の肩から手を離した。解放感と共に息をゆっくり吐き捨てた。

「嘘はいけません、終夜。噂ではこの遊女に骨抜きにされているという話ではないですか。意中の女相手だと、さすがの終夜もあがって意地悪を言いたくなってしまうんでしょうか。若いですね」
「中二病かよ」
「ギャップというのは異性に刺さるらしいですよ。あなたの性格がド屑だという事は周知の事実。つまりあなたの女性に向かって言う〝飽きた〟という発言は、想定の範疇(はんちゅう)を出ず(ひね)りがありません。もっとインパクトがないと。……〝ここでぶち込むぞ〟は、どうですか?女性側もまさかあなたがそこまで色狂いのド屑だとは思っていないでしょう。インパクトあると思いませんか?」
「誰に聞いてるのか知らないけど、どう考えてもド屑はアンタだろ」

 終夜はそう言うと深く深くため息を吐き捨てて俯いた。

「めんどくさ~」
「まァ、そう言わず。楽しく飲みましょう」

 そう言うと晴朗は、明依の前から腕を伸ばして終夜の台に置いてあった猪口を片手で掴み、もう片方の手で終夜の手を握ると、無理やり握らせて酒を注いだ。

「……本当に楽しく飲む気なら腰の刀、置いてくれない?気になって仕方ないんだけど」
「そういう訳にはいきません。あなたは立派な危険人物かつ、何か仕出かす可能性の方が高いんです。すぐに使える様にしておかないと」

 晴朗はそう言うと、今度は宵に猪口を差し出して酒を注いだ。

「どうも、ありがとうございます」

 宵はそう言うと、晴朗の台に乗った徳利に手を伸ばした。

「どうぞお気遣いなく。僕は彼女に注いでもらいますから」

 完全に気を抜いていた明依だったが、晴朗の言う〝彼女〟というのが自分の事だという事を理解した。どうしてわざわざ宵を制してまで自分が注がないといけないのかと考えなかった訳ではないが、それが仕事で呼ばれているのだからと思い直して徳利を手に取った。

 晴朗は何を思っているのか、明依の肩に手を伸ばすと自分の元へと引き寄せた。

「あの、晴朗さん……これは、」
「酒、注いでもらえますか?」

 そういう晴朗に、明依は混乱したまま酒を注いだ。晴朗はそれでも明依の肩から手を放そうとしない。晴朗はそのまま、酒を飲み下した。

 別に肩を抱かれる事なんて慣れているし、それに関して照れるだとか恥ずかしいだとか言う感情は生まれてこない。ただ、訳が分からなかった。一体何の目的があってわざわざこんなことをするんだ。

「たまにはこういうのも悪くないですね」
「おい。勘違いしてるなら訂正するけど、遊女は裏側なんて何も知らない一般人だよ」

 独り言の様に呟く晴朗に、終夜は強い口調でそういった。

「そこは嘘でも〝俺の女に手を出すな〟くらい言いましょうよ。……ところで、誰が誰をどう騙していてこの関係性が出来上がったんですか?」

 動きを止めたのは、明依だけではなかった。宵も終夜も、同じようにそれぞれが動きを止めた。

「まあ別に興味もないですけど。……そんな事より、出過ぎた真似をして申し訳ありません。お二人には積もる話もあるでしょう。僕らの事はどうぞお気になさらず。終夜が危険な行動をする様なら契約通り、この妓楼を守る為に動きますから」

 そう言うと晴朗は、催促する様に明依に猪口を向けた。明依が酒を注げば、晴朗は満足したように笑みを浮かべた。
 この男の目的は一体何なのか、明依には見当もつかなかった。
< 43 / 79 >

この作品をシェア

pagetop