造花街・吉原の陰謀

20:もう一つの厄災

「あのさァ。食事くらいゆっくりさせてよ」

 終夜が台から手を離すと、晴朗は刀身を下げて両断できずに引っかかっている台に足をかけ、刀と台を離した。

「一方的に刺される趣味もないでしょうから、こんなこともあろうかと刀を持参してきました。刀は得意ですか?」

 晴朗は腰に下げてあったもう一本の刀を、鞘ごと終夜に投げた。終夜はそれを受け取ると、溜息を吐き捨てた。

「アンタは勝負がしたいだけだろ」
「さあ、今すぐ表へ出てください、終夜。文字通りの()()勝負といきましょう」
「もう本当、めんどくさ。誰?こんな戦闘狂(バトルジャンキー)を妓楼の警備に配置したヤツ。こうなる事くらい、想像できただろ。誰が止めるの?」

 終夜は心底気に入らないといった様子でそう言った。

「この妓楼の中での揉め事は望みません。晴朗さん、刀を鞘に納めてください」

 そういう宵に、晴朗は耳を貸す気はない様だった。明依はまだ混乱していた。主郭にはこんな化け物みたいな人間がたくさんいると知っていたら、旭に会う為とは言え、単身で乗り込む勇気はもしかするとなかったかもしれない。

「いつも適当に相手をされて逃げられるばかりで、飽きてしまったんです。本気の終夜と殺し合ってみたい。どうしたらいいですか」
「やめてください、晴朗さん……!この場には子どももいるんですよ!」

 明依は立ち上がり晴朗に向かってそういったが、彼は明依の腕を引っ張って肩を抱くと刃をそっと明依の方へと向けた。終夜はため息をつきながら、刀を持ったまま立ち上がった。座敷にいた遊女はその様子を見て一目散に座敷から逃げ出し、主郭の人間も警戒する素振りを見せながら立ち上がっている。

「その女から離れろ。俺にとって、一介の遊女に価値なんてない」
「抱けばいいですか?」

 晴朗は張り付けた様な薄い笑顔を作ったままだ。無機質な冷たい表情ではっきり告げる終夜の言葉には、聞く耳を持たない。

「勝手にしたら。……でもこの妓楼では、遊女にも客を選ぶ権利があるらしいよ。そうだろ、楼主様」

 終夜はそう言いながらも、宵に話しかけいる様子は全くなかった。

「だったら、オールクリアですね。少なくとも、今の所嫌われている様子はないですし」

 明依は縁側に座って煙管をふかした夜の事を思い出した。あの時は確かにそうだったが、こんな気の短くて喧嘩っ早い男は心底ごめんだと思った。明依はふと視線を感じて終夜を見た。彼は目を細めて明依を見ていて、目が合うと舌打ちした。

「尻軽女」
「何でアンタに文句言われないといけないの!?」
「ちょっと黙ってろ」

 終夜はそう言うと、刀を抜いた鞘を放り投げた。

「それでは、深い傷を刻むのはどうですか。ケロイドが残るくらい深くて癒えない。生きる限りずっと身に刻まれる他の男が付けた傷というのは、気分が高揚しませんか」

 言葉の端々から感じる得体のしれない不気味さに、明依は息を呑んだ。肩に回っていた晴朗の手が、明依の頬に触れた。

「動くな」

 明依が思わず振り払おうとすると、終夜はたった一言そう言い放った。

「見えるところなら、顔、首。隠れる所なら腕、背、胸元、それから」

 晴朗は指先で明依の頬から首を通ってなぞった後、胸元の中央より少し左に指を当てて動きを止めた。

「心臓の上、なんてどうですか。……どうしたらいいのか教えてください、終夜」

 まるで心臓を、命を、直接握られているのではないかと錯覚するほどの威圧感。逃げるどころか、指先一つ動かす事さえ恐ろしくてできそうになかった。

「僕はあなたの逆鱗に触れてみたい」
「少しは大人しくなったのかと思ってたけど、しっかりイカれてて安心したよ」
「やはり面倒ですね。やめておきます。僕には合わない」

 晴朗は明依の着物を掴んで引き離した。バランスを崩した明依が目を開くと、刀の切先が真っ直ぐにこちらを向いて目の前にあった。

「やっぱり、殺します」

 本当に一瞬だった。刀の切先が、目の前で止まっていると思う程。誰かに思い切り腕を引かれて抱きすくめられた後、先ほど明依のいた場所には、刀身が真っ直ぐ伸びていた。それからすぐ、金属同士がぶつかる高い音が響いた。

「一般人だって、そう言っただろ」
「彼女は、でしょう。あなたは、真っ黒な裏側の人間。一般人ではありません。気を付けないと。こうやって、弱みを握られることになる。相手が僕でよかったですね。一撃で仕留めますから、彼女の苦しむ姿は見なくて済みますよ」

 まるで守る様に抱きしめている終夜の顔は、無表情だ。しかし、珍しく少し焦っている様にも見えた。

「気が散る」

 終夜はぶっきらぼうにそう言うと、自分の肩口に明依の頭を押し付けた。
 一介の遊女だと思っているなら、あっさり引き渡してしまえば終夜は無駄に晴朗に絡まれる事はないはずだ。別にそうされる事を望んでいる訳じゃない。しかしどうして今自分が終夜に守られているのか、自分の事であるというのに、明依には全くもって理解ができなかった。

「鬼の子も人肌が恋しくなるのですか。意外です。あなたにまだ、人間らしい部分が残っているなんて」
「どう解釈してもらっても構わないけど、一つだけアンタは誤解してる。この人が俺にとって特別な人間だと思っているなら、ありえない。絶対に」

 語尾を強めてそういった終夜は、鼻で笑った。

「カミサマってヤツに誓ってもいい」
「鬼が神に誓うんですか」
「何度でも言うよ。俺にとって一介の遊女に価値なんてない」
「あなたがそこまでハッキリ言い切るのですから、そうなのでしょうね。だったらたかが遊女一人、黙って見捨てておけばよかったのに」

 恐怖心が胸の内を埋め尽くしている最中、本当に晴朗の言う通りだと思った。一体どうして守ってくれるのか。

「アンタは気楽で羨ましいよ。代わってほしいくらいだ。……雛菊大夫の急死の時、世間や客を納得させる為に徹底した根回しをした。かなり苦労したよ。もう本当に、勘弁してほしいね。この黎明も曲りなりにも吉原では位の高い遊女。それにこの人の客の中には、勘が鋭そうな人間もいる」

 勘が鋭そうな人間というのは、藤間(とうま)の事だろうか。
 そんな疑問を抱いていると知っていたのだとしても、終夜が懇切丁寧に説明するはずもないが。終夜は晴朗の腕を蹴って少し距離を取ると、明依の肩を力強く押して引き離した。晴朗の持っている刀の切先が明依を向いたかと思えば、今度は宵に腕を掴まれて、強い力で引き寄せられた。

「死んでも守れ。万が一の事があれば、その後一秒と経つ前にアンタを殺す」

 終夜はそう言うと、宵と晴朗の間に入る様に重心をずらした。

「彼は〝楼主〟ですよ」
「知ってるよ」
「そういえばあなたが主郭に連行したのは、この楼主ではなかったですか。随分と懐が深いお方ですね」
「言ってろ」

 晴朗と終夜が言い合っている間、宵は明依の肩を抱いて二人と距離を取った。

「明依、怪我はないか?」
「うん、平気……だけど」

 そう言って明依は少し離れた所から終夜を見たが、彼は明依に背を向けていて表情を見る事は出来なかった。
 座敷の中は見知った顔と、それから数人。既に大して人は残っていなかった。〝吉原の厄災〟と、終夜の言葉を借りるなら〝戦闘狂(バトルジャンキー)〟との真剣勝負なんて、巻き込まれてはただでは済みそうにない。この二人はそれ程吉原にとって危険な人間なのだという事は分かった。

「明依お姉ちゃん!」

 雪はそう言うと、明依の元に駆け寄って腰回りに抱き着いた。明依は震えている雪を抱きしめ返すと、頭を撫でた。

「危ないと思ったら、逃げないとダメだよ」
「明依お姉ちゃん、死んじゃうかと思った」
「ちゃんと生きてるよ」

 恐怖心でおびえているのかと思ったら、明依が死ぬことに対して怯えていたらしい。本当に優しい子だと思った。

「……終夜が守ってくれたから」

 それが紛れもない事実だった。終夜があの時庇ってくれなければ、晴朗の刀が眉間から後頭部を貫通していただろう。

「終夜は?終夜は、死なない?」
「……きっと、大丈夫だよ」

 雪と終夜が関わったのは、明依が屋根の上から降りようとした時や、呼び出しの時に雪を経由して聞いたくらいのもので、大した接点は無いように思う。それでも雪は、終夜を心底心配している様子だ。雪は目に涙を溜めて、明依の着物の袖を握っていた。
 そう答える以外に何といえばいいのか、分からなかった。ただ、不安げに着物の袖を握る雪のほしい言葉は分かっていた。それに何か理由をつけるなら。その答えは、案外簡単に出てきた。

「死んだりしないよ。だって終夜、すごく強いんだもん。だから、死んだりしない」

 明依がそう言うと、雪は少し笑って頷いた。
 自分でも驚くほど明るい声だった。まるで、そうなることを心底望んでいる様な。終夜に抱く感情が明るいものなのか、暗いものなのか。明依は今、そんな事すらわからなくなっていた。

「巻き込まれると危ない。二人とも早く、この座敷から出るんだ」

 宵はそう言ったが、明依は終夜と晴朗をじっと見ている双子の幽霊の所へ走った。

「二人とも危ないから、一緒にこの座敷から、」

 視界の端で晴朗が投げた何かが光ると、明依に向かって真っ直ぐに飛んでくる。その向こうでは、終夜が晴朗を壁に押し付けた所だった。真っ直ぐに飛んでくるものが何かを理解するより前に、宵はそれをあっさりとした動きで掴んだ。
 明依は自分のすぐ側で宵によって動きを止められたそれが、刀だという事に気が付いた。宵は刀身部分を握っているというのに、怪我一つしていない様だ。背を向けている宵の表情は分からない。
 宵は刀身を握る手に力を込めた。手の内側から溢れた血があっという間に畳を真っ赤に染めた。

「宵兄さん、血が……」

 自ら刀を握りしめた。一体どうして。そんな疑問が整理できるより前に上ずった声で発した言葉に、宵は何を返す事もなく刀を足元に放った。それからすぐ、未だに揉み合っている二人の側に歩いた。

「アンタを見てると、自分がまだまともだと思えるよ」
「面白い冗談です。あなたもしっかりイカれていますよ」

 終夜が壁に晴朗を押し付けたまま刀を振る為に腕を引くと、晴朗は袖の内側から短くて細い刀を出して、終夜に向けた。

「終夜!!!」

 気付けば明依はそう叫んでいた。殺すことを躊躇ったのだろうか。真意は分からないが、終夜は動きを止めた。その隙に晴朗の刃は真っ直ぐに終夜に向かっていた。

「この妓楼の中での揉め事は望みませんと、そう伝えたはずです。晴朗さん」

 宵は刀を持っている晴朗の手を血まみれの手で掴んで、そう言った。晴朗は終夜から宵へと視線を移した。

「先ほど黎明も、酒を楽しむ場であると説明したはずです。随分酔いが回っていらっしゃる様ですから、今日はもうお休みください」

 終夜と晴朗は、どちらからともなく離れた。そして晴朗は、自分の着物についた宵の血を眺めた。

「素手で刃を握ったんですか」
「ええ。咄嗟(とっさ)の判断でしたので、考えなしに」
「身を張るよりも前に、刃を握る判断が咄嗟に出るものでしょうか。……面白い」

 晴朗は楽しそうな顔をして笑うと、宵を見た。

「楼主。あなたのお名前は?」

 そういう晴朗に、宵は優しい顔で笑った。

「今まで通り〝楼主〟と呼んでいただいて構いませんよ」
「……では楼主、今日の所はお言葉に甘えて休ませていただきます」

 晴朗は何を思ったのか、声を漏らして笑った後、終夜と宵の横を通り過ぎて出口に向かった。その途中、動きを止めて明依を見た。咄嗟に身構えた明依だったが、晴朗は笑顔を浮かべた。

「怖い思いをさせてしまって申し訳ありません。せめて一撃でと思ったのですが、終夜に止められてしまいました。でも、あなたを殺しても特にメリットは無さそうだと分かったので、もう大丈夫です」

 そう言うと晴朗は今度こそ座敷を出て行った。それを見た終夜は、溜息を吐き捨てると明依の元へと歩き、目の前で立ち止まった。

「怪我は……?」

 明依はやっとの事で終夜にそう問いかけた。

「ないよ。そんな事より、アンタの馬鹿デカい声せいで危うく死にかけたんだけど。せっかく守ってやったっていうのに、俺を殺す気?」

 唖然としている明依を見て、終夜は鼻で笑って笑顔を浮かべた。
 それから明依に向かって手を伸ばす。明依は思わず身構えて目をぎゅっと強く瞑ったが、頭にぽんぽんと触れた手に目を開いた。
 そのころには終夜は、もう明依から顔を逸らしていた。
 一瞬見えた表情は安心した様な、優しくて、穏やか。見間違いかもしれないと思う程、彼らしくない。それでも、はっきりと見えた。
 終夜はそんな明依に構う事無く座敷を出る。明依は終夜に撫でられた頭に触れたまま、放心していた。

「あの二人が鉢合わせる度にこの規模の騒ぎを起こされては、そのうち満月楼は潰れるぞ」
「ただ、終夜の抑止力としては申し分ないですね」

 誰に言うでもない叢雲の言葉に、宵は自らの着物を裂いて止血をしながらそう言った。

「あれだけ人がいて、死人が出ていない事が救いだと思う他ないな」

 炎天はそう言いながら、荒れた座敷を見回した。

「晴朗さんが、終夜が明依を気に入っているという事を今どう解釈しているのかはわかりませんが、あの様子だと大丈夫でしょう。しばらく様子を見ましょう」

 晴朗は終夜の抑止力の為に満月屋に派遣されたのか。そう思うと胸が痛んだ。肝心なその理由は、わからないまま。
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