造花街・吉原の陰謀

21:勘の鋭い贔屓客

 明依は藤間の隣で、彼と同じ様に吉原の街を眺めていた。

 雨。それでもやはり、この街から人が少なくなる事はない。店から出た客が番傘を開いた。
 まるで、花が咲いた様だと思った。そう思えば、慣れた街の見慣れた通りに色とりどりの傘が行きかう様子を初めて綺麗だと思った。

 まるで生存本能が、乾ききっている心の内に無理矢理(いろど)りを与えたみたいに。

 今日は、どうかしている。理由は分かっていた。雨だからだ。旭が死んだ時も、日奈が死んだときも雨だった。だから感傷的になっている。
 この人生がくだらないものに思える。
 雨だからだ。
 これから先の人生、長く生きていくことになるとしてもきっと、雨の日は思い出す。
 そんな気がした。

 明依はここ数日、終夜の事が頭から離れなかった。未だに終夜に向けている感情が正なのか負なのか、分からない。

 日奈と旭と気持ちを共有したいと思う。二人が見た〝終夜〟という人間を、知りたいと思う。今はもういない二人の輪郭をなぞることが出来る様な気がするから。

 しかしそれは同時に宵を、いや、自分自身すら裏切る様な行為である気がした。それなのにどうして終夜は、あの時迷いもなく守ってくれたのだろうか。そしていつものように小馬鹿にしたように鼻で笑った後、優しい笑顔を浮かべて、頭を撫でて。本当に心の底から安心した様に。じゃあ一体何に?明依が生きていた事に?そんな訳ない。あの男は、そんな人間じゃない。

 しかし無意識に浮き上がった考えというのはなかなか収まらないもので、もしかすると遊女の首を絞める真似をしたのも、怯える遊女を座敷から出してやる為だったんじゃないかとさえ本気で思い始めているのだ。

 それと同時に、双子の幽霊に対する周囲の反応。それから雪のこれから。子どもたちにとって、ここが地獄の様な場所であってはいけないと心底思っている。大夫になれば主郭に意見くらいはできるようになるが、現状希望はなさそうだ。どうすることも出来ない。そのもどかしさが、明依の首を絞め続けていた。

 明依は座敷に運ばれてきた料理の乗った台の前に、藤間と共に座った。彼は何をいう事もない。藤間の差し出す猪口に、丁寧に酒を注いだ。

「雛菊の事、残念に思うよ」

 明依は思わず息を呑んだ。日奈がいなくなって数か月が経った。藤間はその間にも何度か座敷に来ていた。
 きっと外の世界でも大きなニュースになっていただろうから、知らない訳はないとは思っていた。
 話を振られるだろうと思っていろいろ考えていたのに、藤間は今の今まで日奈の事を一度だって口にしなかった。だから完全に、気を抜いていたのだ。

 咄嗟の事でなんと返事をしていいのかわからない明依を一瞥することもなく、藤間は猪口の中で揺れる酒を見つめていた。

「以前君に、『君の心が楽になるなら、私はいつだって君の言える範囲で話を聞く』と言ったね。君がいつまでたっても無理ばかりしているから、少しはこちらから話題を振ってみようと思ったんだよ」

 藤間は猪口に口をつけた。そしてそれを明依に差し出す事はなく、胡坐をかいた足の上に猪口を持っている手を下ろした。

 藤間の様子は相変わらず穏やかだった。無理に話をさせようと思っている様子は、全く感じられない。
 事はもう、収集できないところまで来ていた。旭と日奈が死んで、終夜が宵を連れて行って、宵は傷だらけで帰ってきた。
 終夜を最低なヤツだと思ったら、雪や双子に見せる優しさを見て、本気で守ってくれた。そして、宵との関係に相変わらず終着点は無くて。

 いまだに感情は整理されてはいなかったが、教えてほしい事であれば迷わず一つ、思い浮かぶ。

「……ではどうか、答えておくんなんし。藤間さま」

 明依は息を深く吐き捨てた後、震える声でそう続けた。

「以前、藤間さまより奥様を亡くされたと聞きんした」

 妓楼で家庭の話をするなど、言語道断。ここは男をこの街に引きずり込んで夢を魅せる為の場所だ。そんな場所で、家庭を思い出させる話をするなんてとんでもない事だった。

 しかし誰も聞いていない。藤間しか聞いていない。そして彼はきっと受け入れてくれるはずだという確信が、明依の中にはあった。
 藤間は黙って、明依の話に耳を傾けていた。

「大切な人を失っても生き続ける人生にも意味はあると、本気でおもっていらっしゃいんすか」

 藤間はまだ、口を開かない。

「本気で思っているのなら、どうして過去を忘れた様に……そんな風に穏やかでいられるのでしょう」

 明依は俯くと、着物を両手でぎゅっと握りしめた。

「……教えてください、藤間さま」

 明依の縋るような弱々しい声を聴き終えた藤間は、細く息を吐いた。

「過去を忘れられないからこそ」

 はっきりとそう告げる藤間に、明依は思わず彼を見た。彼は遠くを見つめていたが、やがて明依の方を向いて優しい顔をして笑った。

「だからこそなんだよ、黎明。せめて他人から見た私くらいは、彼女が愛してくれた私のままでいたいじゃないか」

 衝撃、という一言では片付けられない。
 頭を鈍器で殴られた様な感覚、というのが正しいのかもしれない。藤間が発した考えは、明依の中には到底なかったものだった。

 他人から見た明依という人間は、旭や日奈が友として慕ってくれた自分のままだろうか。いや、全くもって違うものだ。きっと二人の知っている明依という人間は、もっと折り合いをつける事が上手だった筈だ。あの二人がいたから、辛い仕事も頑張ろうと思えた。いつも支えてくれた二人がいたからきっと、努力を惜しまずに宵の為にいつか大夫にと思う余裕があったのだと思う。

 ずっと続くと思っていた、三分の二の世界。その二人と関わる事で見ていた自分が〝明依〟という人間だった。だから自分を見失っている現状は、当然の事の様に思えた。

「黎明。君は〝生きる〟という行為について考えたことはあるかい」
「生きる……ですか」

 明依は考えた。それから浮かんできたのは何の捻りもない、模範解答の様なものだった。

「……行動すること、でしょうか」
「もちろん、それもいい。しかし私の考えは、少し違うんだ」

 そう言うと藤間は一度大きく息を吸って、それから細く素早く息を吐いた。

「私はね、心を見つめ、心に耳を傾ける事を〝生きる〟というんじゃないかと思っているんだ。喜怒哀楽。人間の中に溢れている時に形容し難い感情を。それが形を変えて思考に触れる感覚を。心の内で噛みしめ、ただ感じる事」
「……噛みしめて、感じる」

 明依は藤間の言葉をそう繰り返した。正直に言えば、藤間が何を言おうとしているのかわからなかった。その感覚を楽しめという意味なのだろうか。

「身が軽くなる程嬉しい時も、自らに爪を立てなければ耐えられない程苦しい時もある。だけどその鮮烈な感情は、長くは続かない。終わりはしなくとも必ず、必ず薄れていく。……雛菊の死を前にした君は、おそらく人の目も気にせずに取り乱して泣いただろう。今同じように、取り乱して泣くことはできるかい」

 明依はほんの少しの間考えた。しかし、考えている時点で出来ないのだろうと思った。あの突沸した様な感情。声を殺すことすら忘れて、誰に構う事もなく泣く事なんて出来ないと思った。

「鮮烈だったはずの感情は、そうやって薄れていく。その代わりに、君の心の中に深く根を張ろうとしている。私は今の君を見ていて、雛菊の存在が(かせ)になっているように思うよ」

 確かにそうだ。日奈だけじゃない、旭もそうだ。二人がいなくなったことばかりを考えている。二人がいなくなった日から、ずっと。

「今見る景色が()せて見えるのなら、〝あの人がいないから、世界が変わった様に見える〟と悲観してはいけない。〝あの人がいたから、世界がより色付いて見えていた〟と思い直すんだ。人間の心って言うのは案外単純にできていてね。そう思えば、考え方が変わっていき、言動が変わってくる。そうやって少しずつ、本当に一歩ずつ、雛菊の存在を自分の(かて)にしていけばいい」

 学ぶことばかりで、今日の二人の様子はとても客と遊女だとは思えない。まるで先生と生徒の様だとすら明依は思った。

 藤間の言う通りだった。他の遊女たちがこんな思いをしていたという事に考えが至らない程、明依の日常は間違いなく色付いていた。それは明らかに日奈と旭のおかげだった。それをあの二人のおかげで世界が色づいて見えていた。失ったものばかりを必死になって数えていた。

 確かにそんな考え方では、日奈や旭の死が枷になっている。素直に、考えなおしたいと思った。日奈と旭の事が、大好きだから。

「それからもう一つ」

 そう言うと藤間は、長い間空だった猪口を明依に差し出した。明依はそれに酒を注いだ。

「私はね、人間の心の中には一つのバケツがあると思うんだ。その大きさは人それぞれ。悲しい事や辛い事があれば水かさは増しバケツは重くなって、バケツから水が溢れ出してしまう。それを吐き出す術が泣いたり、愚痴を吐いたり。そうすることでバケツの中の水を抜いて行く。でも、嬉しい事があった時には、バケツの水かさは減り、軽い気持ちになれる。そんなときは少しくらい他人の水を掬い取ってやろうと思える」

 藤間は先ほどよりも随分と優しい声でそう言う。その音が鼓膜を震わせる度、涙腺が緩みそうになる程に。

「水は溢れてもいいんだ。泣いて、愚痴を吐いて、全部吐き出してしまえばいい。肝心な事は、バケツから溢れたその水を吐き出しもせず、心の内に溜めてばかりではいけないという事。いつか溺れてしまうよ」

 明依は下唇を強く噛んでこの濁流の様な感情に抗おうとした。それはまるで、五感の全てがその事だけに意識を向けている様な感覚だった。
 藤間は俯く明依の肩に手を置いた。

「泣きなさい。まだ君が、君である内に」

 噛みしめていた唇を緩めると、震えた息が溢れ出てくる。そして膝で握りしめている手の上、それから着物の上にぽたぽたと涙が落ちた。
 藤間は明依の背中に触れた。

「大丈夫、大丈夫。ここには誰もいないよ」

 明依は両手で自分の顔を覆って、泣いた。
 旭の死、日奈の死。それから、自分が縋りついてわからなくなった宵との関係性、終夜との蕎麦屋での出来事、ずっと憧れていた大夫にはなれない事、自分を好きだと言ってくれる雪に何もしてあげられない無力感、晴朗に殺されかけた事実、終夜という人間に対する感情と、宵の秘密。
 いろんな思いが絡まって、明依は声を出して泣いた。
 雁字搦めに縛られて、どうすることも出来ない現状を直視して。

 藤間の言う通り失ったものばかりを数えるのはやめて、二人の死が糧になる様に生きていく。しかし今は、泣きたい気分が収まる事は無さそうだった。

 藤間はいつまでも何をいう事もなく、明依が泣き止むのを待っていた。
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