造花街・吉原の陰謀

06:紫煙が燻って消えた後は

「あ!黎明さん!!」

 赤く塗られた格子の内側から、凪は嬉しそうな声を上げて明依に手を振った。明依は凪に軽く手を振り返して赤い格子の内側に入ると、凪は少し横に移動して明依が座れるスペースを開けた。明依が凪の隣に座ると「今日は黎明さんなんですか?」「嬉しい!」となぜか周りからキャッキャされている。悪い気はしなかった。
 いやがらせされたらどうしよう。なんて考えていた明依だったが、談話室でお茶をした時に一緒にいた見知った顔もある。案外歓迎ムードだ。

「一緒に張見世するの初めてですよね!嬉しいな」
「私、張見世するのが初めてなんだよね」
「えっ!そうなんですか?……黎明さん三味線とか上手だから、座敷の人員に持っていかれちゃうのか」

 興味深々の様子の凪に、深く聞かれたらどうしようという戸惑いがあったが、自己完結で納得してくれたらしい。

「座っていればいいんだよね」
「はい。後は大きな声で笑ったりしなかったら、基本的には自由です」

 凪はそう言うと、ニコニコとご機嫌な笑顔のまま格子の向こうに視線を移した。明依も凪にならってぼんやりと往来する人々を視線でなぞった。生き生きとした様子で格子を覗いては楽しそうな声を上げて去っていく。明依はもう一度凪に視線を移すと、やはりニコニコとご機嫌な笑顔のまま格子の向こうを見ていた。

「凪」
「はい?」
「何かいい事でもあったの?」
「え?別に何もないですよ?」

 凪がそう言うと、彼女の向こうに座っていた女の子が少し身を乗り出した。

「凪はいっつもこんな感じなんですよ。吉原オタクだから」
「だって仕事楽しいんだもん」

 凪と女の子はそう言うと、周りは楽しそうに笑い声で溢れた。大して年齢も変わらないはずなのに、なんだか若々しく見えた。
 やはり住む世界が違うのだと思い知らされるばかりだ。張見世をずっとやってみたかったが、気持ちのいいものじゃない。格子の向こうから眺められるその様子は、さながら檻の中に飼育された動物の様だ。窮屈で、退屈だ。自分達の現状を誇張して見せられる気になってくる。
 〝梅の花見て笑えば表。嘆けば裏門〟
 この言葉を作った遊女は、梅毒の事を嫌がっていた訳じゃなくて、梅ノ位が堪らなく羨ましい気持ちだったに違いない。そう断言できる程、この格子の中でも楽し気な様子の梅ノ位が心底羨ましい。
 そんな楽しそうな女の子達に囲まれて自分の現状を比較すれば、どろどろと内側から溢れてくるものが気持ちのいい感情ではない事は当たり前の様に思えた。

 結局のところ、自分自身が宵に向けている感情は何なのだろう。旭に向けていた感情とは明らかに違っているのに、どこか似ている所もある。
 〝十六夜〟という名前が出た時、その事実が連れて来ようとした感情は、決して認めたくないものだ。だって二人はお似合いだ。十六夜はもともと満月屋にいて、勝山大夫に憧れて丹楓屋に異動した。そんな志の高い人だ。宵が終夜に連れていかれた事で十六夜が協力して、以前の様な楼主と遊女の関係ではなくもう少し踏み入った関係になる事は別に何もおかしい事ではない。
 心優しい人なら、宵の幸せをただ願うだろう。それがどうして自分にできないのか。そんな自分が嫌いだ。
 『そしていつか、一人じゃ立ち上がれなくなる。そういうのを、依存っていうんだよ』
 『自分の事が嫌いになって、許せなくなる』
 終夜の言う通り〝依存〟という泥濘に足を取られているらしい。この心が反発する衝動を、一体どうやって凌いだらいい。いつか大切な宵という人間を傷つけてしまいかねない感情なら、引き千切って捨ててしまえたらどれだけ楽になるだろう。
 明依は無意識に、溜息を一つ吐き捨てた。

「黎明さん。どうしたんですか?」

 明依が弾かれた様に顔を上げると、凪が心配そうな顔で明依を見ていた。

「考え事してたの。今日も一日長いなーって」
「みんなでお話していれば、あっという間ですよ!」

 明依の返事に凪はぱっと顔を明るくしてそういった。凪には日奈の事でかなり心配をかけた。これ以上心配をかける訳にはいかない。凪を見ていると先ほどまで悲観的に思っていた事でも、少し浄化される様な気がした。

「これ、誰の?」

 明依は自分の前に置かれている綺麗に装飾された煙草盆を指さした。

「一応置いてあるんですけど、誰も吸わないからお飾りなんです。あったほうが雰囲気出るからおいているのかも」
「そうなんだ」
「ただ苦いだけだっていうし、吸い方もわからないし、美味しくなさそう」

 そう言うとまた、女の子たちは楽しそうに笑う。この会話で笑えるならもうどんな会話だって楽しいし、無敵じゃん。と思った明依は、とりあえず釣られて一緒に笑っておいた。
 笑顔を作れば自然とマイナスな思考はしなくなるもので、いつまでもふてくされて文句を言っていたって、物事はなる様にしかならないとほんの少し楽観的になっていく。

 明依が視線を格子の外にやると、道を歩きながら格子の中を見る人も、立ち止まって値踏みしている人もいた。「綺麗だね」と感嘆の声を上げる人も「顔ぶれが少し変わったな」なんてマニアな事を言いながら通り過ぎる人もいる。
 そこでふと、疑問が浮かんできた。表側の客達は、格子に並ぶ女の中から何を基準に女を選ぶのだろう。やはり顔だろうか。言っておいて悲しくなるが、明依は断言して吉野や日奈の様なとびぬけた容姿は持っていない。さらに言うなら、今周りにいる梅ノ位の遊女達と比べてみても、容姿だけで言えば劣っているのかもしれない。
 そう考えれば、なんだか裏の世界より過酷ではないか。ステータスの違う人間を同じ檻の中に放り込んでいる、この良くも悪くも平等な世界は。

 明依は側に置いてあった煙管を手に取った。赤く塗られた格子の中にいる女のたったそれだけの行動で、観光客の数人は足を止める。中には自分のポケットを探ろうとして「あー、スマホなかった」と呟く人もいる。
 ゲームの様な感覚だった。吉原の中での待遇は、恵まれていた。しかし良くも悪くも平等な世界なら、自分の実力を試してみたい。周りの梅ノ位の容姿がどれだけ良くても、往来する客から一番最初に選ばれるのは自分に決まっている。という自信が明依にはあった。きっと誰もが、この非現実の景色の中にいる自分に酔っている。だから吉原に来る客が目的としているのは、飾りの様にただ可愛いだけの女じゃない。客が求めるものが何か、寸分違わずわかっている様な気さえした。

 明依が煙管に口をつけようとすると、観光客はその〝景色〟を目に焼き付けようとしていた。
 今となっては、過る目の前の出来事を画面越しに見て思考停止で撮影する事が当たり前の現実世界。それなら自らの目だけで見るこの吉原という世界は、さぞかし鮮烈だろう。今日という一日くらいは、一度限りの景色を手のひらサイズの便利な箱越しではなく、五感をフルに使い高彩度で自分の脳を記録媒体として刻み付ける感覚を味わって帰るといい。
 そんな願いでも祈りでもなければどこか卑屈な考えを口にする代わりに、明依は煙管に口をつけてゆっくりと口内に含んだ後、注目を浴びている事に気付かないフリを決め込んだまま、細く細く吹き出した。
 客にとっての非日常、非現実の世界では、そこに住む住人は気取っているくらいが丁度いいに決まっている。ただ女性と関わりたいだけなら、吉原の外にだってたくさん店はあるだろう。ここに来て格子越しに女を眺める理由なんて、興味本位以外の何物でもないのだから。

 燻る煙の向こうには、ぼんやりとした様子でこちらを見ている男がいた。とりあえず笑顔を向けると、彼はすこしおどおどした後、明依を指さした。
 自分は大して裏側には染まっていないし、どちらかと言えば健全な方だと信じて疑っていなかったが、これは堕としたな。と思っている時点でまともな感覚はなくなっているらしい。

「この人を、」
「ごめん、お兄さん」

 明依を指さしたまま妓楼の案内役の方を向いて言葉を続けようとする男に誰かがぶつかって、すぐさま謝罪の言葉を口にした。

「大丈夫?怪我してない?」

 そう言いながら顔を上げた男は終夜だった。
 なんで終夜がここに。と思った明依の左隣では、梅ノ位の女の子が案内役に呼ばれて立ち上がっていた。男の方を見れば、明らかに明依の隣の女の子を指さしていた。当の本人はそれに気付かず、驚いた表情で終夜に視線を移している。終夜が男を押した事で、明依の隣の女の子を指名した事になったらしい。

「ああ、いや、大丈夫」
「よかった。もう行った方がいいんじゃない?中で女の子待ってるよ」
「ああ、そうだな。そうだよな」

 そう言うと男は、まだ格子の中に座っている明依には目もくれずに一目散に満月屋の中に入っていった。明依は唖然としたままその様子を視線で追った後、格子に近づいてくる終夜を見た。この男が余計なことをしなければ絶対に選ばれたはずなのに、嫌がらせか。と言う気持ちと、投票する前にすべてをはっきりさせたい気持ちが逸って混乱していた。それからあの大座敷で守ってもらって以来、顔を合わせるのは初めてというどこか気恥ずかしさの様な気持ちもあった。戸惑っている明依を他所に、終夜は格子越しに凪の前で立ち止まった。

「こんにちは、終夜さん」
「こんにちは。ちょっと聞いてもいい?」
「はい、勿論。何でしょうか」
「この街のいい所って何だと思う?」

 おそらく滅多に関わる事のないだろう終夜に話しかけられた凪は不思議そうにしていたが、彼からの問いかけに花が咲いた様に表情を明るくした。

「非日常に浸ることが出来る所だと思います!!それに、テーマパークってどこもイベント日時を出していますが、吉原の花魁道中はいつどの大夫が行うかわからないという運の要素が強い所もワクワクして吉原の魅力だと思います!あっ、あと!いつも当たり前に持ってるスマホがない所も。とにかくほかのどんなテーマパークでも味わう事が出来ない感覚なんです!いい意味で時代の流れに逆らっている所だと思います!!」
「ふーん。じゃあ、今の吉野大夫が襲名する前の源氏名は?」
和花(よりはな)さんです!」

 凪の回答に終夜は満足気な笑みを浮かべていた。本当によく知ってるな、と明依が凪を見ると、相変わらず目をキラキラと輝かせていた。

「大正解。好きなんだ、吉原」
「はい!大好きです!」
「他の妓楼に友達はいる?」

 明依は思わず終夜を二度見した。
 この男、白昼堂々公衆の面前でナンパして合コンでも取り付ける気なのか。もしそうなら、マジで色狂いのド屑じゃん。弁解の余地なしじゃん。と思った明依は、もう一度凪を見て彼女の発言を待った。

「はい。いますけど……」
「じゃあさ。一つ頼まれてくれない?仕事しなくていいから」
「私、仕事はしたいんですけど……」
「それだけ吉原が好きなら、きっと仕事よりいい提案だと思うよ」

 そう言うと終夜は、凪にこそこそと耳打ちをした。一体どんな提案をしようって言うんだと耳を澄ませている明依だったが、肝心の話は一言たりとも聞こえてこなかった。

「本当ですか!?」

 大声でそういう凪に、明依は思わずビクリと大きく肩を浮かせた。凪の顔は満面の笑みで、尚更終夜の耳打ちした内容が分からなくなる。

「うん、本当。頼まれてくれる?」
「勿論です!!」

 そう言うと凪は勢いよく立ち上がった。

「他の妓楼の楼主に何か言われたら〝私が終夜さまに殺されます〟って言うんだよ。これ、魔法の言葉だから」

 終夜がそう言うと、凪を含めた梅ノ位の女の子たちはキャッキャと楽しそうに笑い声をあげた。
 全然笑えないし、終夜のこの発言を冗談と受け取れる事が心底羨ましく思う。

「はい、わかりました!終夜さんって面白いですね」

 この男に面白さなんて欠片もないぞ。と思う明依の横で凪はそう言うと格子の外に出た。それを視線で追うと、満月屋の案内役は「仕事中に何をしているんだ」と凪に凄んだ。凪は「でも行かなきゃ、終夜さまに殺されるんです!」というと、案内役は視線を泳がせた後で終夜を見た。終夜がひらひらと手を振ると、案内役はあっさりと道を開けて凪は人込みの中に消えていった。
 それを確認した終夜は「さて」と呟いて明依の前に立った。

「その顔。アンタが何を考えたのか、手に取る様にわかってムカつくよ」

 どうやら合コンを取り付けようとしていたと考えた事を言っているらしい。それに対して明依が何かを答えるより前に、終夜は案内役の男を見ながら明依を指さした。

「この人にするよ」

 終夜はそれから明依を見ると挑発的な顔で笑った。

「俺の退屈凌ぎに付き合ってくれるよね」

 どうせ嫌だと思っていても弱みを握られている時点で従うしかないのだが、この状況に至っては願ってもないチャンスだった。表座敷なのだから、どうこうなることもないしただ酒と料理を楽しむだけだ。二人きりならなおさら、聞きたい事を聞ける。

「勿論、喜んで」

 不安も恐怖も、全てを隠して笑顔を作った明依は終夜に向かってそう言った。反応が予想外だったのか終夜は少しだけ目を見開いた。

「どうぞよしなにお願いしんす。終夜さま」

 どうやらどれだけ終夜に弱みを握られているのだとしても、この男に媚を売る事だけはしたくないというのが自分の深層心理だという事を悟った。
 それから明依は、煙管に口をつけてから終夜の顔に向かって細い煙を思いきり吹きかけた。当然煙は彼の顔面に直撃した。ゆっくりと薄くなって消えた煙の向こうで、終夜は笑顔を作っていた。

「こちらこそ、どうぞよろしく」

 終夜はそう言って格子の隙間から手を伸ばし、明依の持っている煙管を奪い取って口をつけると、明依に向かって煙を吹きかけた。明依は咄嗟に目を閉じたが、息を止めるのが遅かったようで吸い込んだ煙が喉を圧迫した。
 片手で煙を払いながらむせる明依を気にも留めず、終夜は歩きながらもう一度煙管に口をつけて煙を吹いた。それから案内役の男に「始末しといて」と煙管を押し付けて満月屋の中に入って行った。
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