造花街・吉原の陰謀

07:手始めに答え合わせでも

 ニコニコと愛想よく笑う梅ノ位の女の子を見て「あれ、こんな子だったっけ……?」と戸惑っている先ほどの男の横を通り過ぎながら、まだイガイガと痛む喉に触れて前を歩いている終夜の背中を睨んだ。

「ここなんだけど」

 明依は表座敷として使われている一室でそう言って立ち止まったが、終夜は明依に背を向けたまま廊下を歩き続ける。

「……ちょっと!聞こえてるでしょ!」
「〝終夜さま。どうぞこちらに〟くらい言えないのー?」

 すでに終夜との距離は、声を張り上げなければ聞こえない程ひらいていた。大声を出すのも迷惑なので、明依はしぶしぶ小走りで終夜の後を追いかけた。

「こっちだって言ってるでしょ」
「それは聞いたよ」

 終夜の横を速足で歩きながらそういうが、たった一言そう呟いただけで変わらず廊下を歩き続ける。
 このままじゃ(らち)が明かない。なんてめんどくさい男なんだと思いながら明依は深い深いため息と共にプライドも吐き捨てた。

「終夜さま!どうぞこちらに!」

 そう言い終えた途端、終夜に手を引かれて部屋の中に押し込まれた。この部屋が自分が普段使っている明依自身の座敷だと認識した所で、終夜は握っていた明依の手を離して襖を閉めた。丹楓屋の座敷の中や蕎麦屋の二階の様な雰囲気になる事だけは何としても避けたい明依は警戒したが、彼は珍しく真っ直ぐな顔で明依を見ていた。明依は少し動揺した後、何を考えているのかわからない終夜の目を正面から見つめた。

「色恋はもういいよ」

 終夜は冷たい口調でそう言い放つ。シンとしている静かな座敷の中で、この部屋の畳の匂いや障子窓から入る日の光の温かさを意識していた。それと同時になぜか、慣れているはずの座敷の中がいつもより広く、いつもよりずっと殺風景に感じる。

「まァ、アンタがどうしてもって言うなら頑張るけど」

 ころりと態度を変えていつもの調子で終夜はそういった。以前にも聞いたセリフに明依は、先ほどまでの雰囲気は何だったんだと終夜を睨んで、それから少し意地悪をしてやろうと思い立った。

「遊女を買っといて頑張るって何?不能なの?」
「男がみんな自分の身体で興奮できると思ってる?すっごい自意識過剰」

 一に対して十で返答してくるこの男に対する心底恨めしい思いと悔しい思いが交差していた。少しは時雨を見習えよという言葉を胸の内だけで吐き捨てた。

「この部屋、誰も来ないけど」

 そもそもこの座敷を使っているなんて誰も知らない。料理や酒なんて運ばれてくるはずもない。妓楼に関わっているのだからわかりそうなモノだが、この男は一体何がしたいんだ。という気持ちでそういったが、当の終夜は楽しそうに笑っていた。

「積極的キャラに天然キャラまでプラスしての路線変更だったんだ」
「……は?」
()()()、抱いてほしいって意味でしょ?懲りないねェ、アンタも」

 確かに流れ的にはそう間違われても仕方ない会話だったが。が、しかし。そう思われているならめちゃくちゃ恥ずかしいし、どうしてこの男はいつもいつも自分は受け入れて貰えて当然だと思っているんだ。さらに言うなら、どうしてそんな言葉が恥じらいの一つもなく自信満々にペラペラと出てくるんだ。という衝撃で明依は言葉を失っていた。

「冗談だよ。誰も来ない事なんてわかってる。わかってるから、この部屋にした」

 そういった終夜の様子はどこかいつもと違っていた。あえて言うのなら、蕎麦屋の二階で暮相の事を口にした時の様な。一方的な押しつけがましい何かじゃない。今ならお互いの言葉を交差させることが出来るような、そんな感覚。そして確かに実感する。終夜は今日、退屈凌ぎなんかに来たんじゃない。話をしに来たんだという事。
 その場に胡坐をかく終夜をみて、明依も腰を下ろした。

「じゃあ、前と同じでいいよ。そっちからどうぞ」

 そう言って終夜は、薄く笑う。何か話がある事を見透かされていた事実になんて、今更驚きはしない。明依は深く頭を下げた。

「この前は、ありがとう」

 何も言わない終夜がどんな顔をしているのかわからない。

「終夜がいなかったら、死んでたと思うから。守ってくれて、ありがとう」
「当然だろ」

 なんの迷いもなく真っ直ぐな言葉でそういう終夜に明依が顔を上げると、彼は明依の目をじっと見ていた。

「納得はいかないけど、あれは俺がアンタに迷惑をかけた様なモンだ。それなら、筋通して守るのは当然だ。それに前にも言ったろ。俺はアンタと違って、自分の言動に自信も責任も持ってる。感謝される筋合いなんてない。……話、それだけ?」

 淡々とそう言う終夜に、明依は無表情を崩さなかった。しかし、少しだけ。本当に少しだけ、終夜から感じる人間味を嬉しく思っていた。理由なんて、考えたくもないが。

「もう一つある」
「じゃあ、さっさと済ませて。次が控えてるんだから」
「日奈の事、考え直してみたの」
「また日奈の話?アンタも飽きないね。俺に『死人に口なし』って言われてキレてたの忘れた?」
「日奈が死んだとき、笑ってた」

 明依は終夜のわずかな変化すら逃さない様に注意していた。それは祈りにも似た何かで。しかし、当たろうが外れようが、その先には何もあるはずのない何かだった。

「痛いし苦しかったはずなのに、笑ってたの。顔には、血を擦って拭き取ったみたいな痕があった。広く裂けていた着物が、はだけない様に重ねてあった」

 終夜は全く表情を崩さない。明依は大きく息を吸うと、喉元が小さく震えた。

「終夜なんでしょ?日奈にあの(かんざし)を渡したのは」

 日奈を認めていたからこそ、顔の血をふき取って、着物を整えて、あの簪を渡した。日奈があんな穏やかな笑顔をする理由なんてきっと、他にない。
 恐る恐る問いかける明依に、終夜はため息交じりに一つ息を吐いた。

「そうだよ。俺が日奈の昇進祝いに簪を渡した」
「……旭を殺したのは、」
「俺じゃないって言ったろ。吉原に興味はないんだから、殺す理由もない。少し考えたらわかるでしょ」

 そういう終夜に、明依はゆっくりと安堵のため息をついた。

「って言って欲しいんだろうけど、それは信じているとは言わない。騙されている、って言うんだよ」

 気持ちに何かしらの整理がつくより前に冷めた口調で終夜はそう言う。唖然としている明依を見た終夜は、それを見て鼻で笑った。

「もし仮に俺が旭を殺していなくて、日奈に簪をわたしていたら。殺されかけて、宵を地下に監禁して、吉野大夫の身請け話を無期限の延期にして、大夫昇進をさせないように圧をかけてる事は、アンタの中では全て清算?正気?」

 確かに、正気じゃない。双子の幽霊の言う通りだ。もし先ほどの事が全て真実だとしても、終夜は善人ではない。終夜を信じた先には、どうせ何もない。

「人間は嘘をつくよ。こんな薄汚れた街の裏側を知ってそれでも生きていきたいなら、もう少し汚れた方がいい」

 触れられる距離にいると思った。どうやらそれは幻だったらしい。終夜に聞きたい事が聞けないのは今に始まった事じゃないというのに、事実と絡まったそれになぜか酷く傷ついていた。

「一つ教えてあげるよ。人間は誰かに触れてもらわないと、自分の形が見えない様にできてる。そしてアンタはつい最近まで、それに大いに甘えて旭と日奈を通して自分って人間を見ていた。だからアンタの物差しはいつまでたっても日奈と旭だ。そうやって自分の尺度を持てない所も、アンタが大夫に相応しくないって思う部分なんだよ。少しは頭、使ったら?」

 アドバイス、なのだろうか。それにしてもどこまでも冷たい口調と態度に、またこの男の事が分からなくなる。一体何がしたいの?そう問いかけるよりも前に終夜は、区切りをつける様に息を吐いた。

「それで本題なんだけど。松ノ位になった時の損失を考えたことある?」
「損失?」
「そう。しがらみって言うのかな。松ノ位、つまり大夫が相手にしているのは金持ちばかりだ。基本的には金持ちの道具になり、気に入られれば莫大な金と共に身請けられて一生籠の中の鳥だ。大夫にならなきゃないリスクだって山程ある。誰もアンタの中身なんて求めちゃいない。客が愛するのは大夫という吉原の外にも轟くその地位と、容姿。それから夜のテクニックだけ。人間にとって飾られた自分だけが求められている事程虚しいものはないよ。地獄の先もまた地獄って事だ。どこに行ったって変わらない。……せっかくこの地獄に慣れてきたのに、別の地獄に行きたい理由は何?金?それとも名声?」

 これは試されているのだろうか。何も答えない明依に、終夜はいつもの薄ら笑いを張り付けた。

「安心していい。アンタがどう答えようと、結果は変わらない。思っている通りでいいよ」
「……信じてくれた旭と日奈。それから感謝してる宵兄さんと吉野姐さまの為。後は、雪と一緒にいたいから」
「そこに自分の信念や思いはないって訳ね」

 回答を間違えただろうかと思ったが、口にしてみれば確かに明依にとって大夫になるという事自体に価値があるものではなかった。極論を言うなら、日奈と旭と笑っていられるなら、大夫になんてならなくてもよかったのかもしれない。そんな甘ったれた考えだった。

「ないのかもしれない」

 『努力というのは継続し、平均して一定以上の質を保って初めて形になる。これは〝才能〟の一種だ』
 以前終夜はそう言っていた。確かに自分には才能がない。と納得せざるを得ない。その甘えた考えに、〝一定以上の質〟を保つだけの燃料があるとは到底思えなかった。所詮、その程度の枠の中での努力だったのだ。
 ただ、今は違う。失ったものに気が付いた。どうしてもっと早くからもっと本気になっていなかったんだと心底思った。だから今なら、あの時よりも大きくはみ出した枠の中で戦えるはずだ。

「ないのかもしれないけど、認めてほしいって思ってる。そうしたらきっと、私は、胸を張ってここにいていいって、ここに来てよかったって、思えると思うから」

 『自分の幸せくらいは、自分で決めます。それが吉原の中だろうと外だろうと、私にとっては同じ事。私は吉原にいられて幸せです』
 吉原に無期限に縛り付けられる事が分かった時に放った吉野の言葉を思い出した。終夜の言う自分の物差し、自分の尺度。その正体が、吉野と自分の違いが、ぼんやりと分かったような気がした。
 自分で口にした言葉は耳から体内に入って、身体の深い所で溶けた様な感覚だった。
 〝認めてほしい〟
 今まではほとんど無条件に日奈と旭から与えられたその感覚を今初めて、自分の手で手繰り寄せようとしている意識が、確かにあった。

「認めてほしい。みんなにも、いつか終夜にも」
「別の地獄がいいんだ。踏み外せば、今以上に過酷な地獄を見る事になるよ。その覚悟はあるって事でいいの?」

 終夜の問いかけに、明依は大きく一つ頷いた。

「まあ少しは成長したんじゃない?」

 意味深にそう呟いた終夜は、どこか満足気に笑った。

「それじゃあ、賭けようか。()()

 終夜はそう言うと「入ってきていいよ」と入り口に向かって言った。すぐに襖が開いて、明依の座敷の中にはぞろぞろと年配の男女が数人、たくさんの荷物を持って入ってきた。

「俺とアンタの人生を賭けた大博打といこう」

 状況を飲み込めないまま終夜に視線を移すと、彼は意地悪な笑みを浮かべていた。

()()()()の花魁道中だ」

 明依は言葉を失ったまま、ただ目の前の終夜を見ていた。
< 55 / 79 >

この作品をシェア

pagetop